竹美映画評106 あるムーダンの孤独 『巫女圖(무녀도)』(1972年、韓国)
韓国古典映画のサイトを物色していたところ、「巫女」という文字が目に留まった。
巫女=ムーダン含む巫覡(ふげき)は、ホラー映画『破墓/パミョ』『コクソン』や日本のホラー『来る。』、韓国ドラマ『ザ・グローリー』にも登場、今や、ホラー・サスペンス作品にフォークロアの情緒を付加してくれるものとしてホラーファンにもお馴染みだ。
ところで下記論文によると、韓国映画は1960年代以降継続的に巫覡=巫俗を描いて来た。また、海外の映画祭で注目されたからこそ、今回の映画も属する70年代以降の巫覡を描いた韓国映画の研究が進んだのだとしている。
※論文中で『高麗装』は木下恵介『楢山節考』の影響下にあると推測されていて大変興味深いが、残念ながら、韓国映像資料館のサイトにも作品は載っていなかった。
ホラー映画の理解に何かしら関係あるかな…という位の気持ちで鑑賞したが、期待通り、私の興味ある部分に踏み込む内容になっていた。
あらすじ
日本統治時代(原作の小説ではそうだが本作では不明)、慶尚道の村。霊験あらたかな巫女、モファは、己の引退を視野に、養女ナンイを跡継ぎとして立てることを考え始めていた。そこへ、幼少期に仏教の寺に出した息子ウギが帰郷。かつて愛し合ったが身分の違いから別れる他なかったウギの父親と瓜二つに育った息子を前に動揺を隠せないモファだったが、やがてウギとナンイが愛し合うようになり、信仰する神몸주신からの神託も聞こえなくなる。息子も、手塩にかけて育てた弟子=養女も離れていき、天からも見放され、錯乱したモファは、家の神棚の前で悪鬼払いの儀式を始める。
巫女のセクシュアリティとコリアンエロス
韓流ブームのはるか前から韓国に熱心に関わって来た女優の黒田福美のエッセイ本を大昔に読んだ(それこそ韓流ブームなんかのずっと前)。そこでずっと気になっていた一節がある。
彼女が映画館で映画を観た時の話だ。なぜかセックスに関する映画が多いと感じた彼女は、韓国人に「韓国人はセックスが好きなのか」と尋ねたら、「そうだ」と答えが返って来たと書いてあった(と記憶している。記憶違いなら申し訳ない)。
後年観た70年代の傑作オカルトホラー『お前もまた星となりて』等のいわゆる「別荘残酷史」映画(韓国映像資料館の資料にある論文『ソウルの外に欲望の舞台を建てる』の筆者キム・ハンサンの言葉)ではトップレスが次々に出てきて驚いたし、『桑の葉』ではトップレスこそないがセックスがテーマだった。
今回の映画もセックスや性的欲望が前面に出ている作品であり、いわゆるコリアンエロスの系譜に属するのだろう。
モファは就寝中、信仰する神と交信、性的なオーガズムを感じていると描かれる。彼女にとって、己は神(シン)と共にあるということは、自分のムーダンとしての自信につながっている。また、神とのつながりが何より天涯孤独であった自身の心のよりどころでもあることが後半、痛々しい形で見えてくる。
養女に対して厳しく接する一方で、非常に大事に思っており、どこか同性愛にも近い感情を抱いているように見える。
そのような『ノーマリティ』をかく乱するのが、キリスト教に改宗して帰郷した息子である。
立派に成長した息子に、出会った頃のかつての想い人の姿を重ね、息子に対する性的な欲望を感じている。モファはそれをひどく恥じ、決して人に知られることのないよう、己を抑圧する他なくなる。
息子が養女と愛し合っている上、息子はキリスト教などという「邪教」に改宗しまい、あろうことか、養女=跡継ぎまで奪おうとしている…ムファには、地主の息子との不倫で生まれた我が子を守るために父親が犠牲になり、村を追放され、天涯孤独の身になってしまったところで、神の神託を受けてムーダンとなったという過去がある。
独身の女が生きていくことが難しかった時代、ムーダンとしてコミュニティの中で一定の発言力や尊敬を得て来た彼女にとって、神からの神託が得られなくなるということは、すべてを失った上で正真正銘の孤独に戻るという意味だ。
余談だが、様々な文化において、未婚の上に逸脱行動をする女はコミュニティから追放されるべきモンスターであり、逆説的にそのコミュニティを成立させるための他者=犠牲者だ。アメリカのホラーにおいては未だ魔女狩りの残存が感じられる。
モファの経緯に鑑み、朝鮮のコミュニティは、多少逸脱した女を「ムーダン」としてのみ受け止めることができた、ということかもしれない。
ところで、『巫女圖』のみならず、韓国語の中で神(シン신)という単語がキリスト教の神「ハヌニム하느님」と区別されていることには注意が必要だ。
モファは、息子の離反をイエスキリストの憑依のせいだと観念、ハヌニムに対してエクソシズムを行うのである。
「雑鬼イエスを追い払いたまえ!」で誤魔化される本音
このセリフがすごい。
息子は、キリスト教を先進的なものとして捉え、また、都会や外の世界を知っており、故郷の母やナンイを「救ってあげなければならない」と考えている。その意識は、養女ナンイを村の外に連れ出し、母のすべてである巫覡を絶やすことさえも正当化する。
母モファは、己の中に宿る息子に対する性的欲望を決して人に知られてはならないと緊張している。神託が聴こえなくなったのもそのせいなのか…また、当の息子はイエスのしもべとして、私の全てを壊そうとしている…
モファの自信喪失と恐怖に近い不安は、赤い光で表現されており、演技も含め、ホラー映画の描写に酷似している。
遂に恐慌状態になったモファは「雑鬼イエスを追い払いたまえ!」と自分の神に祈り、儀式(굿)をやる。またそれにナンイも参加する。その様子を見つけたウギの目には、赤い光に包まれ、狂った女二人が魔鬼(彼の言葉:마귀)に憑かれていると見える。
受け入れがたい物事の移り変わりを前に悪鬼を祓うという行為に出る。これは、本作公開の1年後『エクソシスト』の公開以降、現在に至るまでアメリカで愛されている悪魔祓い映画のテーマでもある。悪魔祓いは精神的困難に直面した人間たちがやり直すための「方便」なんだと『エクソシスト』などに先立って表現しているのだ。まして本作のモファには、近親相姦願望が渦巻いているわけだからなおさら。
そう考えると、私のバイアスではあるが、韓国の『巫女圖』がホラー的な描写を使っているのは偶然ではないのかもしれない。
日本統治時代、村山智順は朝鮮の巫覡を後進性として認識していた。また韓国のドラマや映画を見ていると、実際、ムーダンとは胡散臭いものだという認識もある。
次々に厳しい事実を突きつけられ、再び来る孤独の恐ろしさに苛まれたモファは最後に幻覚を見る。朴槿恵元大統領のスキャンダルも記憶に新しい。巫覡によって生きる苦悩を和らげたい…見た目上、本件はいかにも韓国という気がするものの、日本人とてそう違うわけでもない。
とっくにスピリチュアルブームを体験し、経済的没落が明らかとなった今の日本で、巫覡が悩める韓国人に与えてくれるようなもの…宗教の代理を皆が切望する日はそう遠くもないだろう。