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竹美映画評83 インド男が自立するとき 『Chandigarh Kare Aashiqui』(2021年、インド(ヒンディー語))

(故に、が多いなwそれから、文法的におかしいところがあるのでさすがに修正します。6月7日)
2021年末にインドに来たばっかりの頃にやっていた映画。内容は(もうこれネタバレじゃないよね)、トランス女性に恋してしまったインド男がどう自らを見直していくかというお話。アユは、頭髪の少ない男、ED、同性愛者男性、声だけ女性のテレフォンサービス男、詐欺師のピアニスト等、現代インド男性をコミカルかつ共感できるように描いて来た。

尚、タイトルにある通り、舞台は北インドはチャンディーガルという街。ここは、かのル・コルビュジェがデザインした街として建築好きの間では昔から有名。私もいつかは訪れてみたい場所。

おはなし:

チャンディーガルの裕福なうちの長男坊マヌ(アーユシュマーン・クラーナー)は、ボディービルダーのコンテストで優勝することを目指す青年…しかし親から借金して始めたトレーニングジムの経営は思わしくなく家族の中でも肩身が狭い。そこへ、ジムのスタジオを使ってズンバのクラスをやりたいという女性マーンヴィ(ヴァーニ・カプール)が現れる。彼女のクラスは瞬く間に大人気となり、ジムも人気が出てビジネスは成功!美しく品のいいマーンヴィにマヌは好意を寄せ、マーンヴィもマヌが好きになり、ホーリー祭りの日に結ばれる。そこら中でセックスしまくるようになり、結婚も考えるようになるが、ある日マーンヴィが「私は元は男性だったの」と告白。ショックを受けたマヌは暴言を吐く。

インド男の弱点は「母親」と「家族の名誉」

今回の映画は確かにトランスジェンダーの人が出てくるものの、それがメインテーマではないと見る。もしそれがテーマなら当事者の人を出してそこにフォーカスしただろうし、アユがその役をやったかもしれない(またそれが別の議論を呼ぶわけだが)。でも、彼の映画が描いて来たのは、「インドによくいる、いい人なんだけど何かが決定的にダメな男」の問題性。故に、今回は、見知らぬ背景を持つ人を前にした男性の動揺と、本音の残酷さというものをまざまざと見せつけることが主眼かと思った。インド男の弱点、それは、「母親」と「家族の名誉」である。

マヌの母はマヌが13歳のときに他界。そのショックで(だったと思うが)摂食障害になったマヌが救いを見出したのはボディービルディング。故にそれで目標を達成しなければ、彼は「家族の恥」なのである。母親不在であるが故に精神的に母親から自立する契機を得た一方、次なる関門「家族の名誉」という試練に晒されることになる。

インド映画においては「家族の名誉を汚すな」という極めて強い集団主義が顕著に現れる。私が見るに、この強い傾向は、宗教を超え、インドから中東圏地中海にかけて共通していると見える。故に、イラン映画『セールスマン』の状況は80%程度はインドにおいても当てはまると思う。

インドの映画には家族のために個々人の意思や幸せが踏みにじられ、場合によっては命を落とす様がよく出て来る。故に、個々人の意思と家族の名誉が100%マッチしたときに見せる強さは計り知れないわけだが、大概の家族は何かしら我慢を強いられ歪みがあり、そこに様々な問題が生じて来るはずである。

マヌは30過ぎても未婚で既に家族の恥になりつつあり、そこへ、お付き合いしている美しく上品な女性がトランス女性だということが発覚するや、家族の中で「家族の恥になることを徹底的に阻止したい」という力学が働く。本作では姉二人がその役割を担う。有閑階級である彼女達は暇でゴシップを探しているわけだが、それが自分たちに降りかかって来た途端、激しくマヌとマーンヴィを攻撃する。この展開はちょっときつい。突然自我が消えてしまうんだね。

父親もこれに最初は賛同するが実は父親には後ろめたい理由があった。

本作の面白い点の一つは、母親という甘える対象が無い彼が家族からも自分の意思で自立しない限り、彼は自分の納得いく人生を歩むことができないだろうと示した点だ。これは、例えばランビール・カプール最新作の『Tu jhoothi main makkaar』では全く描かれない。ミッキーは結局家族からも母親からも自立しないまま、彼の家に入ることに気が進まないティンニを迎え入れてしまえば一挙両得である。故にタイトル「君=ティンニはうそつき、僕=ミッキーは詐欺師」は、エンディングで見せた未来像はミッキーから見た虚構かもしれないとも暗示している。

未知のものへの恐怖を誤魔化すマヌの罵詈雑言

本作はコメディではあるが、マヌや彼の一族がマーンヴィに対して表出させる嫌悪感と罵倒はかなりきつい。かなり抑えて描いてあると思われるものの、マヌは怒りのあまりマーンヴィを暴行したり殺しかねない勢いである。しかも、嫌ならもう二度と関わらなければいいのに、わざわざマーンヴィを探し出して罵倒しに来るところがいかにも歪んでいる。

そんなに嫌だっていうなら私に関わらないで!私に何してほしいっていうのよ!と、既にこのような事態を経験済のマーンヴィは言い返す。御意。

彼の中にも「何か」があるのだが…それは本作では「愛」という言葉で一応は意味づけられる。一方、あれ以上その「何か」を掘り下げると、演じることが難しい内容になっていたかもしれない。本当はマヌの心の中には何が引っかかっていたのだろうか。

そもそもマヌは、自分の中に生じた嫌悪感なり苦悩を言語化することができないのだ。いい人だが、困ったことを前にすると罵倒や脅迫という形でその心の中の不快感を噴出させるような男である。また、罵倒する彼にマーンヴィが言い返すシーンで「あんたなんか、鼻の先ケガしただけで大騒ぎしてたくせに」と言われてしまうが、要は、図体は立派だが頭は子供なのだ。マーンヴィに何度も暴言を吐くことでしか(暴行寸前)、自分の中に生じた曰く言いがたい、未知のものへの恐怖と向き合えないばかりか、それを消すことすらできない

インド映画およびインドの若い男性の様子から想像するに、さもありなん、という気がする。ほとんどの男は、自我が家族主義と宗教の中に溶けているため、自我が感じる疑問や恐怖を自分の言葉で考えるという訓練が決定的に足りていない。暴力や暴言で出力する以外の方法を本当に知らないのではないかと思う。よって、マヌのように自分は騙された!と騒いで相手を攻撃するのではあるまいか。その男性当人が大人しくて何もできないなら、周囲にはその復讐を助けてくれるような、自我が集団の中に溶けている上殺気立っている男性たちが沢山いる。下手すると女性も加担するだろう。テルグの村ホラー『Virpaksha』で暴動が発生するメカニズムはこれじゃないんだろうか。

それほどに、本作はコメディであるが故に抑えられていた描写が不穏だった。その位、アユも、攻撃性を丸出しの態度で演じていた。なかなか笑えないと思う。

本作では、マヌのような多くのインド男性にとって最もとっつきやすい入口「でも相手のことが好きだ」という感情「愛」をフックに、自分の中に生じた疑念を解消する策を示している(それと向き合うというのはまた別のレベルの訓練が必要なのではないだろうか)。マヌは自分からトランスジェンダーとはどんな人達なのかと学び、社会のアウトサイダーであるヒジュラ―に助言を求め、次第に気持ちが落ち着いていく。その中で「自分は何をしたいのか?」ということを見つけていくわけだ。

ここ、自分自身を見つめ直す、というのとは違うと思うし、ある種の誤魔化しプロセスかもしれない。しかしまず暴力衝動を何とかしないとまずいし、それが家族という集団から脱出することを促す一つの糸口となるのかもしれない。あくまで偶然そうなるわけだが。

女の人の場合は家族という檻はもっと明確に意識していることだろう。女性にとってインドの社会システムがあまりに過酷だからである。

アーリヤ―・バット演じる主人公の冒険は、家族主義という檻から脱走しない限り、正気を守ることができないのだと訴えかけている。

さて、「自分は何をしたいのか?」と改めて自分に問うてみたマヌ(多くの若いインド男性)にとっての最終的な試験が、家族主義との決別だ。「自分は誰なのか…」という深みにまではいかずとも、「自分がしたいこと」を貫き、それによって却ってそれまで彼のことを軽んじていた家族の興味を引き付けるというプロセスは、できすぎとはいえ微笑ましい。

最後は楽しいパンジャブ音楽で終わる!重いけど楽しくもある映画だった。

前に、『Ek villain returns』(野獣一匹という洒落た邦題があると知った!)で感じた、「インド男性の内面をどう描いているのかよくつかめない」という感じとも違う、何か新しいものも感じた。新しすぎてよく分からないものになっていたり、或いは、却って中間層インド人から反発されるような危ういものでもあるのだと思うが。

さて、本論では敢えて触れなかった内容、「トランスジェンダー女性の表象について次に考えてみたい。

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