『傲慢と善良』が描く、人間関係の牢獄からの解放
小説『傲慢と善良』は、2019年に朝日新聞出版から刊行された辻村深月の小説だ(2022年に文庫本化)。2024年には藤ヶ谷太輔・奈緒のW主演で映画化された(萩原健太郎監督・清水友佳子脚本)。
この作品については、そのタイトルの力強さもあってか、「傲慢さ」と「善良さ」の内容(婚活の内外における表出、「善良さ」という言葉が指すものに対する同意不同意など)を論じる声が目立つ。しかし、そのようなアプローチは、この作品が描き出した別のものを見落としているのではないか。これを論じるのが本稿の目的である。
小説『傲慢と善良』が描く、土地と人の関係
あらすじ
小説の内容は、以下のように紹介されている。ミステリー小説であることもあってか、あまり踏み込んだことは書かれていない。
そこで、若干のネタバレ込みでごくごく簡単にあらすじをまとめておこう。
西澤架は、東京で家業のビール輸入業を継ぎ、容姿端麗。これまで仕事も恋愛もそれなりに順調だったが、長年交際していた恋人(アユ)の「早く結婚して子供を持ちたい」という願いを先延ばしにした結果、フラれていた。これをきっかけに架はマッチングアプリで婚活を始めるが、三十代後半になっていた自分がもはや若くないという現実に直面し、婚活に苦戦する。婚活を続ける中、坂庭真実と出会って付き合い始めたものの、1年以上経っても結婚に踏み切れずにいた。真実からストーカー被害を訴えられた架は、これをきっかけに真実との婚約を決意するが、ある日、真実は突然姿を消してしまう。真実の行方を求めて群馬県前橋市に住む彼女の両親、彼女が登録していた結婚相談所や県庁勤務時代の同僚、過去のお見合いの相手などを訪ね歩くうち、真実にはストーカーがいなかったことを確信するに至る。
真実は、失踪の前日、架の女友達に会う。結婚を先延ばしする架に対して付いた嘘を看破されるとともに、「架が真実のことを70点と言っていた」と告げられてショックを受けた真実は、架の前から姿を消す。真実は、東北地方(東日本大震災の被災地)に向かい、ボランティアとして現地での生活を始める。真実は、写真館で持ち主の見つからない写真の洗浄に従事した後、津波で流された土地で地図を作る仕事を手伝っていたが、偶然にも写真館で見つけた結婚式の写真が50年前に執り行われた神社が流されずに残っているのを発見する。
架と真実は、東北の海を前にした駅の待合室で再会し、二人の関係を再スタートすることに。以前は東京で友人の面前での結婚式を予定していたが、上記の神社で2人だけで結婚式を挙げる。
「傲慢さ」と「善良さ」は確かに重要なトピックだが…
物語全体を通じて「傲慢さ」と「善良さ」という評価軸が多用されており、文脈に応じてそれが意味する内容は微妙に異なる。婚活という文脈を巡って顕在化するそれを筆者目線で乱暴に単純化するとすれば、「傲慢さ」は他人に点数を付ける(更にはそれを自分に対する点数と照らし合わせる)ことを象徴する表現であり、「善良さ」は他人が定めた基準に従順であるがために自己決定できなくなる様を象徴する表現である。
評者の多くは、婚活を巡る「傲慢さ」と「善良さ」の内容、更には現代社会における人間関係全般における「傲慢さ」と「善良さ」の内容を深掘りする。確かにそれは重要なトピックだろう。しかし、冒頭で述べたように、それだけでは作者が本作で描き出したものを捉えきれないのではなかろうか。架と真実が「傲慢さ」と「善良さ」をどのように乗り越えたのか。この問いに答えることもまた、重要なトピックであろう。筆者は、この問いを通じて、作家が「人間関係の牢獄からどのように抜け出すのか」という問いに対する答えをも提示しているのではないかと考えている。
人間関係の描写の背景に退いていた土地の描写が徐々に前面に現れてくる
通常の小説は、その冒頭の場面設定において、登場人物を取り巻く環境を詳しく描くだろう。そして、その環境の1つとして、土地の描写は重要だ。しかし、この小説は、冒頭、土地の描写が特に希薄である。舞台は東京から始まる。架の住むマンションが豊洲にあるということは一言触れられるが、その住まいや住環境については殆ど述べられない。真実の住むアパートについても、概ね同様だ。それでは、作者は登場人物を取り巻く環境を描写するにあたり、土地に代えて何を用いたのだろうか。それは、人間関係である。しかも、ここで描かれる人間関係は、相互に評価し合う閉じたネットワークである。麻布競馬場の『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』は、このような人間関係の牢獄に囚われる様を描いているが、本作でいえば、架の女友達との飲み会を描く部分が象徴的だろう。
場面が群馬に移ると、前橋市の坂庭家、県議の妻が営む結婚相談所、県庁の展望フロア、真実の過去のお見合い相手と会うショッピングモールやファミレスを描くにあたり、人物そのものの描写、人間関係の描写に加えて、周囲の土地に関する描写が詳しくなる。県庁を中心に形成された群馬の「閉じた」人間関係のネットワークの中で真実が感じていた閉塞感を描き出すことが1つの目的だったと思われるが、ここでの土地の描写は、単に人間関係の描写に奉仕するためだけのものではない。ここでは土地と人間との関係性・土地を介した人間関係といった隠れた主題が描かれ始めている。特に群馬のショッピングモールを描くにあたっては、20-30代の独身者に居場所がないことに言及されており、結婚して子どもを持つことが土地から求められる様が描かれるのだ。この時点では、真実は、土地に対して受動的な人間として描かれる。(一点注意しておきたいが、作者は、群馬のショッピングモールに対して必ずしもネガティブな意味を付与しているわけではない。架がここで出会った真実のお見合い相手は、この群馬のショッピングモールが求める暮らしを積極的に選び取っており(その妻の求めを受け入れる形で、ではあるが)、作者は、これに比較的温かい目線を送っている。)
舞台が東北に移ると、周囲の土地に関する描写が前面に出てくる。とりわけ、真実が地図を作る仕事に従事する際の人間関係描写は、まさに土地の描写なくしては成立しない。津波によって”失われた”土地で地図を”作る”仕事を介して、真実は、土地そのものと関わり、土地を介して人間関係を構築していく。真実は、土地に対して能動的な人間として描かれるのだ。真実は、架と再会する場所として、海の近くの駅の待合室を自ら選ぶ(現実には防潮堤によって今は海が見えなくなっていることも指摘しておきたいが、あえてここではこれ以上立ち入らない。)。そして、真実は、友人や親族との人間関係に奉仕する東京での結婚式ではなく、東北の神社(自らが土地と会話することができるようになった象徴的な場所)での二人きりの結婚式を望むのである。
映画『傲慢と善良』が描く、母娘問題と「母殺し」
原作小説は、「傲慢さ」については「70点」のエピソードを中心に生々しく描くのに対し、「善良さ」については(真実とは違って早々に実家を出た)真実の姉の言葉を借りて描いている。この点について、原作小説に対しては、「善良さ」が意味するところが分からない、という声が多い。映画版は、これに対する応答として、「善良さ」の1つの形として、母娘問題を強調するストーリー展開となっている。母娘問題については、三宅香帆の『娘が母を殺すには?』に詳しいのでそちらを参照して欲しい。
真実は、群馬では他者の規範、とりわけ母の規範に縛られた(規範を内面化した、というべきか)人生を送っていたことが明かされる。母娘問題は、人間関係の牢獄の最たるものだろう。母がお膳立てしたお見合いではどうしても「ピンとこない」として、真実は東京に向かう。母の規範からの解放をどこかで願っていたのではなかろうか。架と出会って婚約に至るが、そこでも母の規範からは完全には解放されていない。三宅香帆が述べる「母殺し」(母の規範からの解放)の方法に当てはめれば、真実は、架という「別の母」を見つけることで「母殺し」を試みているに過ぎないからだ。しかし、最後のシーンでは、真実は、連れ戻そうとする母の意思には従わないし、抱きしめようとする架を何度も押しとどめ(映画の描写としてはやや不自然なまでに…それだけ監督・脚本家としては重要だったのだろう)、自分の伝えたい想いを口にする。自らの決定として、架との結婚生活を選択するのである。架の庇護の下で架の規範(友達との飲み会を中心とした人間関係の重視)に従うわけではないのである。
それでは、真実はどのようにして、「母殺し」を達成したのか。この疑問について、映画版は必ずしも明確な回答を出せていないように思われた。田舎の飲み屋での人との触れ合いが描かれるが、それが架という「別の母」の「母殺し」を可能にしたのだとすれば、東京の飲み会に田舎の飲み会で対抗する、「要領良く意地悪な」架の女友達に「バツイチで痛みの分かる」飲み屋の店主で対抗するというメッセージにもなりかねない。この点において、映画版の製作陣は、原作小説が提示した隠れた主題を手放すべきではなかったのではないだろうか。人間関係の牢獄から解放されるための脱出ルートとして原作小説が示した、土地の重要性を見過ごすべきではなかったのではないかと思うのである。映画版では、東北の被災地(での写真の洗浄・地図作り)が佐賀(でのみかん農業)に置き換えられているが、これは本当に交換可能だったのだろうか。この交換により、土地(人間以外のもの)と人間との関係を描くシーンが減り、映画版では立ち枯れしかけているみかんの木の植替えの描写に限定されていく。(これも映画に登場する「白い花」の再生の一部として描かれているが、映画全体で一貫して登場する「白い花」も、それぞれ花言葉を介した登場人物への色付けとして機能するに留まる。)勿論、撮影上の困難に鑑みれば、東北の被災地で撮影することは容易ではないし、震災については安易に触ってよいトピックではないことはわかる。しかし、原作小説とは異なり、映画版では真実が失踪前と全く同じようにインスタグラム(人間関係のネットワークそのもの)を使い続けていることからも、映画の製作陣は、真実が人間関係の牢獄からどのように解放されるに至ったのかという問いに十分に向き合っていなかったのではないかと思うのである。
注記
私の投稿内容は、個人としての見解に基づくものであり、いかなる組織の見解を構成するものでもありません。同様に、法的アドバイスを構成するものでもありません。
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