琳琅 第四号より、「逍遥」5
「あら三朝のおじいちゃん。こんにちは」
寺を後にしてすぐ、駅向こうで鍵屋を営んでいる山下さんの奥さんに出会った。
買い物帰りか、自転車の前と後ろの籠いっぱいに野菜やら洗剤やらの入ったビニール袋を乗せている。
「もうすっかり元気ね。息子さんたちの手がなくても平気そうな顔してるわ」
「勘弁してよ。歩く分には良いけれど、利き腕は上がらないわ長く座っていると足がしびれるわで、まだまだひとりじゃ危なっかしいよ」
同じ方向へ歩きながら、山下さんの奥さんは、驚いちゃったわ、あそこのスーパー、ビニール袋一枚に二円かかるようになったんですって、嫌ねぇもう、だからあたし追加でエコバッグも買ってきちゃったのよ、見てこれ、柴犬柄なの、と一息にしゃべって、「柄なの」の「の」から続けるように「っほっほっはっはっはっ」と面白い笑い声を上げた。
「いや、結構じゃありませんか。その辺に捨ててあるビニール袋がなくなるようなら万々歳だ。エコバッグだって、なにも買いものだけしか使えないなんて法はないでしょう」
「そうねぇ。これ、買って気づいたんだけど、結構大きいのよ。しかも畳むと折り畳み傘と大差ないじゃないの。嫌ねぇどうしていままで試してみなかったのかしら」
山下さんの奥さんとは散歩の度に出会う。五人の男の子を育て上げたお母さんで、その内三人がまだ成人前。だからまだまだ母親卒業とはいかず、食べ盛りの子どもたちのために毎日自転車で買い物に出ている。今日の買い物は袋二つ分だ。ということは、今日明日は長男が出張で帰ってこないのだろう。子どもが全員そろうと買い物袋は三つになるのだと、以前、散歩の道中に聞き及んでいた。
「そういえば三朝さんのところ、なんか珍しいトカゲ飼っていたわよね。舌が青いの」
「えっ。あぁ、はい、はい。アオジタね。えぇ、たしかに飼っていましたよ。山下さんの長男と次男には触らせてあげたこともありましたっけ」
「それがうちの次男がね。たぶん同じのを買ってきたのよ。ツチノコみたいなの」
ツチノコみたいなトカゲなら、それはアオジタで決まりだろう。太い胴体に似合わず、かわいらしい手足がちょんちょんとついたインドネシアからの輸入ものだ。
「なんでも全然餌を食べてくれないんだって悩んでて、ちょっと見てあげてくれない?」
「おぉ。そりゃあ喜んで。うちのはちょっと前に死んじゃって寂しかったところですから」
踏切を越えて、駅前ロータリーから脇道にそれたところに山下鍵店はある。
驚いたことに、アオジタトカゲのケージは商品棚の一角に堂々と置かれていた。中を覗くと、まだ赤ん坊と言って差し支えない大きさのアオジタが二匹、バスキングランプの下に置かれたレンガに張りつくようにして並んでいた。
「こりゃあ驚いた。立派な赤ですな」
「おじいちゃんのところはもっと大きかったわよね。両手で持った覚えがあるもの」
「あっはっは。あの大きさまで育てるのは苦労しましたよ」
ベビーの活発な頃はなあ。ケージの中に後ろ脚を千切ったコオロギを十数匹放しておいて、運動もさせなきゃいけないし、そのコオロギにもカルシウムをまぶして、週に一回はネズミのミンチを与えないと必要な栄養が足りなくなってしまう。
ネズミはなぁ。台所でそんなのやらないでと、妻に怒られたっけなぁ。それで専用のまな板と包丁を買ってきて、洗面台の方でネズミの腹を裂いたっけ。何度かやるうちに抵抗感もうすれてきて、ポテトチップスの袋を開けるように指でつまんで、パッと腹を開くコツも掴んだ。ネズミの独特なあの匂いは、二十歳そこそこの次男にはきついそうだ。
「奥さん。紙とペンをお借りしても? こいつはちょっと大変だ」
見たところ、まだ弱っているようには見えないが……。
受け取った紙に油性ペンで必要になるものをメモし、また別の紙に餌の与え方とその分量を書きそえる。
そもそもアオジタトカゲはペアで飼ってはいけない類のペットだ。野生では基本単独行動で、喧嘩するとどっちかが致命的な怪我をする場合がある。
「嫌だわぁ。だからちゃんと調べてから買いなさいって釘を刺したのに」
「まぁまだ若いですから。いくらでも失敗すると良いんですよ。幸いこの子たちはまだ赤ちゃんですから、もしもがあっても、貰い手は見つかることでしょう」
追而書を残すに至って、手のひらに汗の感触を得た。残酷なことかもしれないが、山下さんの次男坊は今年で二一歳になる年だ。下手に遠慮して自分の解釈で判断されるのも困る。
覚悟を決めて、ペンを進めた。
【追而書:アオジタトカゲは外来種です。もし手放そうと考えたときに引き取ってくれる人が現われなくても、決して野生に帰してはいけません。飼った時点で命の責任を負っています。自分の手でけじめをつける覚悟を持つこと】
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