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1月に読んだ本の感想を書いたら1万文字に迫る文字数になってしまいましたが


人生で初めて年末年始に体調を壊した。
31日の晩にいちばん熱が高くなり、なんともトホホな年越しに。
見事に仕事が休みのあいだだけ体調を崩しており、休みらしい休みもとれず、2021年最初の記憶は「熱が出てしんどかった」になってしまった。免疫が下がっている状態で病院に行くほうが怖いなと思い、抗原検査キットを買ってきてもらった。コロナじゃなくてよかった。

2021年最初の月、読んだ本と考えたことをメモ程度に残します。

『生きる技法』安冨歩 著

会社の先輩からオススメだということで読んだ。
一昨年ほど前から周りの友人が多くビビっときていた「自立とは依存を増やすこと」という考え方は、医者の熊谷先生が大きく世に広げたのかと思っていたが、どうやら本書に端を発するよう。

個人的に印象に残ったことは「自己嫌悪に根差さない動機からすべてが生まれる」ということと、「いまこの瞬間に意識を集中する」など、本のなかではその言葉はつかわれてないんですが、かなり「禅的」な考え方と重なることも印象深い。

人間は成長し、他人との関係を取り結ぶために、多くのものごとを身につけねばなりません。この身につけるべきものは、自分の中にはなく、外にあります。自分の外にあるものを身につけるとき、自己嫌悪の種が生じるのです。自分の内にないものを「すばらしいもの」「正しいもの」と思いこみ、それを帯びていない自分を「つまらないもの」「間違ったもの」と思ってしまうのです。「自分を嫌っていない」状態が「自愛」です。
~なすべきことは、自分が帯びているものを、ひとつひとつ確認し、そのなかで本当に必要なものは何か、必要でないものは何かを、日々の生活のなかで見極めることです。必要でないものは、勇気を以て捨てねばなりません。そうして自分を身軽にすることが、自己嫌悪からの離脱につながります。

ー P.70  3|愛について【命題4-2】他人を愛することは、自己愛の否定による


「人間らしく健やかにいよう」という提言で、安富さん自身んの、そのように生きていくという宣言の一冊なのだと受けとめました。

一方で、読みながら、「こうなれたらいいな」と思うところは多くあるんだけれど、いちいち理由をつけて「でもこんなん言ったってこれは・・」と言いたくなってしまう自分が現れた。自分が否定されているようで、グサッとくるところも多かった。
この反応は「痛いところを突かれた」という類のものだという気がしている。


個人的には「わたしらしく生きていく」みたいなことはわざわざメインテーマにしなくてもいいよなーと思っているのですが、安富さんが言うことはもっと前提の、根っこにある在りかたに関する提案だよなあと感じる。
普遍的で射程が遠い言葉なので「わたしらしく生きていく!」を大切にするひとにも届く言葉なんだろうなと思うけれど、そのような精神論にとどまらず、実際的な力を持った考え方が書かれていたように感じる。

もう少し安富さんの考え方自体を読んでみようと思っています。



『炉辺の風おと』梨木香歩 著



大好きな梨木さんの最新刊。去年の9月に刊行。

梨木さんがひょんなことから購入することになった、八ヶ岳の山小屋。その山小屋に暮らした時期のエッセイ、「夏中つかったエアコンで痛めつけた身体をあたためるのに時間がかかる暖炉の炎」、「前の人がひらかれながら住んでいた八ヶ岳の山小屋のこと」、「どうしても取り壊したくなかった神学者の自宅」、「八ヶ岳の山小屋に訪れる動物たちのこと」、そして「父を看取った神話の時間」。また、コロナ禍で現れる「民主主義に憧れ続けよう」ということ。

多くが、八ヶ岳の草花のこと、山小屋に訪れる鳥のことに割かれる。梨木さん自身「放っておいたらこのようなことに関心は向いていくのだという証拠のようなエッセイ」だと言う。
その、自身の周りのこと -梨木さんの過去のエッセイのタイトルを借りるのなら、「ぐるりのこと」、から、こんなにも豊かで、さまざまなことを「感じられる」のだと、毎回思う。人間の想像力は、こんなにも発達する。豊かでいられる。

お父さんを亡くされた体験を言葉にしてくださっている。最期の時間を「神話の時間」と言い、文章にしてくださっているのだけれど
自分のごく個人的な、そして大切な人生の時間を、こんなふうに文章に残してくださることへの敬意を感じた。それはすごいことだとわかっていたつもりでしたが、改めてそしてより深く、強く、思った。
梨木さんに限らない、「自身の人生を切り取り、文章に残す」ひとは、すごいなという気持ちになった。それが読まれる読まれない関わらず。
そして梨木さんは「多くの人に読まれる」ことを前提にし、痛みを伴う時間をも文章にしている。それはちょっと異質のすごみがある。

ナイチンゲールの持つ「信仰が現実的な強さを持ち社会へ還元されていく」ことは、梨木さんのなかでずっと「無視できないこと」だったのだと想像するのですが、お父さまの出来事もあり、梨木さんのなかでより「看護」へ、心の傾注が強くなっているようだ。

十教年前から、ナイティンゲールの思想に惹れ、彼女の論文を渉猟し、彼女が長く家族と幕らした英国のピーク・ディストリクトにある屋敷を訪れたり、思索にふけった道を歩いたりしてきた。彼女の医療における信念は、日常(患者の身の回りの世話)と科学(当時最新の衛生学など)と霊性(ケアの現場に、「神の国」を実現する)の三位一体にあった。ナイティンゲールというと皆が思い浮かべるような、ランプを持って野戦病院を廻っているだけの天使ではない、実に実践的な哲学の人であったのだった。その間看護の現場を取材する機会も与えられ、私なりに看護の本質は、患者に寄り添い親身に身辺を整えつつ、「秘そやかに進んでいること」を注視し統けていく姿勢にある、と思っていた。それはすなわち患者に対する関心を持ち続ける、という、ごくシンブルな「熱意」なのだと今でも信じている。
その熱意こそが看護の原動力で、それは患者の年齢や障得の有無で動かされるはずがない、看護するものの人間存在をかけたところで発生するはずのものだ。
ー 第五章 遠い山脈 秘そやかに進んでいくこと


ぼく自身「ケア」という営みが(仕事などには全く関係ないし、いままでの人生で実体験として触れたことはなにのに)とても気になる。その関心は数年来続いており
きっとケアという行為のなかに人生のなかで大切にしたい価値観、考え方、振る舞いが存在しているからだと思っているのですが
梨木さんの感性を通じてどのように看護やケアのことが語られるのか、とても気になっています。「心待ちにしている」というのは少し違う気がするんだけれど、きっとそこにはいろいろな痛みも伴うことなので、けれど「心待ちにしている」というしかしかない気持ち。それにしても引用部分、なんて美しい文章なんだろうと思いませんか。大切に思うこと、こんなふうに伝えたい。


最近の梨木さんの著書のなかで宿題をもらっているような気持ちになることが「不便さを愛そう」というような記述です。
「文明 ー利便さは、不可逆なもの」。吉本隆明さんがおっしゃっている。ぼくもその考え方の立場に立つのですが、梨木さんが不便さを愛し、かもすれば、そのような生活に戻ろうというような文章を読むたび、葛藤に近いものを感じる。「不便に戻る」は、できるのだろうか?

もし、わたしたちの生活が環境などにとって持続的なものになるようなことがあるのだとすれば、それは、「戻る」のではなくて「選ぶ」ことによって起きるのだと、直感的に思う。持続可能性に心が傾注するひとが抱えるべき問いは「どうしたら、選べるか」だ。「戻れるか」ではない。きっとなにかを放棄して「便利を捨てる」ようなことは起きない。

でもだからといって、たとえば、多くの故郷を奪う、「放射能を撒き散らすかもしれないというリスク」を許容することは「不可逆である」とを超えていかなければならないよね、とも思うのだけれど。

けどこれも、きっと「選ぶ」ことなのです。

「我慢する」には限界がある。みんながしあわせになるほうを「選ばなければいけない」し、すすまなければいけない。
こういった理想論をいうとき、寒々とした、「理想だけの空虚」が言葉に潜みやすいこともわかる。けれど、そんなふうに「できるだけだれも傷つかない」選択肢をデザインしていくことが、ぼくらの世代のミッションなのではないだろうか、と思っている。

ひとり、梨木さんと、誤解を恐れずに言うと、特にぼくらの世代からは自然を愛するがゆえに偏固にも見えてしまう多くの愛すべき先達からの、宿題のように感じています。

「どれだけ価値があるか」は、どのようなことであっても人によって違う。梨木さんの文章は、ぼくにとってまだ言葉が追い付かないぐらいの、とても大切な、とても価値があるものであり続けています。


『最後の辺境 ー極北の森林、アフリカの氷河』水越武 著

『炉辺の風おと』のなかで、水越武さんについて触れられている文章があり気になって購入した。
日本を代表する山岳写真家で、山岳だけではなく、幅広く自然をテーマに写真を撮られている水越武さんの、6つの冒険を紹介する一冊。

自分の訪れる地域に一つの傾向が現れてくるようになった。それは未知の要素が色濃く残されている山域である。未踏の山河とか地図の空白部などという言葉を聞くと、震えるような血の騒ぎを覚え、そのような山々に近づくための計画を何年も自分の中で温め、現実の行動にこぎつけた。
 ー 赤道直下の高山氷河 アフリカ<1999年> より

いまにも汗と埃のような匂いが香ってきそうな文章だけれど、「実現」の段になると、文章がすごく実直で計画的にもなることが印象的だった。
このようなひとがこの本に書かれているような仕事を成し遂げるのだなと思うと同時に、そのような夢にお金がたくさん集まる時代だったんだということも感じた。

個人的に心惹かれたのは、ブラジル・イグアスの滝の写真、なぜかアフリカの高山植物は巨大化するんだということ(いったいなぜ!?)、北アメリカ西部沿岸の原生林の苔深い森。
写真が好きな人は見てみて損はないと思う。Instagramにあふれているおしゃれさはまったくないですが、技術と汗で取られた写真も良かったです。

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イグアスの滝の写真。新書サイズなのに写真の迫力がすごい


『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 東畑開人 著

デイケアに集うメンバーさんたちには、人と一緒にいることの難しさがあった。だからこそ、彼らは職場にいられず、他のコミュニティーにいられず、デイケアに集まってきていた。デイケアとは人と一緒にいることが難しくなった人たちが「いる」を試みる場所なのだ。
 ー 第四章 専門家と素人 博士の異常な送迎より

「そこに居ることができない」。これは、だれしも経験があるんじゃないかと思う。この本に登場するデイケアを利用される方は社会生活を営むことが難しい方々なんだけれど、「ここに居るのはつらい」という気持ちは、ぼくらにも、容易に起きる。そして「こんなふうに生きたい」と自然と願ってしまうぼくや、ぼくの友人たちは、理想を願えるがゆえに理想と現実とのギャップから「居ることがつらい」と思ってしまいやすい傾向にあると思う。

「居るのがつらい」のなかで、ひとりの人間として、また若いひとりの専門知識を持った「セラピーを志す臨床心理者」として書かれた一冊。情熱は忘れず、けれど客観的な、アカデミックな目線を忘れずフィールドワークされた本は学び深いことが多い。

原理だけではなく、体験が伴う、過酷ともとれる環境のなかから、沖縄の地で陽に焼けながら書かれた「ケアとは何か、円環的である必要性」「ケアとセラピーはなにが違うか」など、興味深いテーマが次々登場する。
たとえば福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』など、アカデミックにかかわる人が書いた本がベストセラーになることがときどきあるが、共通するのは「専門的な知識に支えらながら観察された普遍性」が書かれていることだと思っている。本書は「ケア」や「セラピー」など、臨床心理的なことをテーマにしながらすごく高いレベルで普遍的なことも書かれている。


印象に残ったことをふたつ。

ケアは「できるだけ傷つけない」行為で、セラピーは「痛いところをさわる、葛藤をきちんと悩む」行為であるということ。

臨床心理や医学に携わる人からするとあたりまえなのかもしれないが、知識がないぼくのような人間にとっては大きな発見だった。
この整理ができていろいろなことがクリアになった。時と場合で使い分けが必要だけれど、ぼくのような人間は「セラピー的な行為が効果がある」と思いがちだ。向き合おう。「そもそも」から考えよう。そういうことは、時には呪いとなって作用する。いくつもそのようなシーンが思い浮かんで胃がキリキリします。

「まず必要なことはケアである」ということは多い。著者の東畑さんも「ケアによって状況が好転していくことも驚くほど多い」と指摘する。
そして、ケアとは「親密な関係を生きることであり」、「依存を引き受けることである」などの指摘もぼくにとってとても分かりよいものだった。

そしてもうひとつは、最後、東畑さんが「居られなくなった」理由が「市場のはたらき」によるものだとはっきり書かれていること。ケアの現場だけではなく、様々な場所でこの悩みは共通するだろう。できるだけ心ある、時間をたっぷりかけた対応をしていきたいが、上司がそれを許さない。会社がそれを許さない。それは結局「市場が許していない」のだ。

しかし一方で、市場があるからこそ成立していることは多い。もうほとんどのものがそうだと言ってもよい。市場から距離を置き続けることもひとつの戦略だろうけれど、市場から距離を取りたい人からも、結局は市場から逃れられないという意味の言葉を聞くことはある。多いんじゃないかな。「市場的でないもの」であっても、市場からの影響を免れないということを真正面から考えたいとぼくは思う。その先にしか、ケアをはじめとする「市場的でないもの」が、本来の役割を持続的に発揮していけないのではないかと思う。

「いる」ということを軽視しているのが市場という原理。その指摘は間違いない、その通りなのだろう。けれど「市場があるからご飯が食べれている」ということも真実。どのように、市場と付き合うか。「ケアとセラピーについての覚書」とタイトルがつけられた本で、最後の章がそのように締められていたのが印象深い。



『驚きの介護民俗学』六車由実 著



『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 は、医学書院出版という会社の「ケアをひらく」というシリーズの一冊だったのですが、とても良い読書体験だった。そのシリーズからもう一冊と思い、評価が高い本書を購入。結果的にいうと、本書も自分の価値観に及ぶ読書体験になった。

著者の六車さんは、民俗学を専門とし、「いけにえ」という概念を軸にフィールドワークを行うなど、業界のなかでも評価が高い民俗学者だったようだ。しかし様々な事情があったのだと想像するが、グループホームの職員に転身された。
この間どのような気持ちだったのかを知る由はないが、ポジティブな感情だけではなかったと思う。「なぜわたしがここに」という、それこそ、居ることがつらいの手前などを想像するのですが、的外れとは思えない。

本書は「民俗学の視点を持ちながら、介護の現場に立ったときになにが起こったか」についての記録だ。六車さんにしか書けないだろうと思う描写の多いこと。

介護では「言語外のコミュニケーション」が大切にされすぎてはいないだろうか。民俗学では、相手の言葉を聞き、書きとめるという聞き書きを重視してきたことを示していると言える。利用者の気持ち、思い、心の動きはそう簡単に察せられるのだろうか。そもそも、利用者はそうした、隠された気持ちを深読みしてほしいのだろうか
 ー 第三章 民俗学が認知症と出会う 言葉を聞き、書くという民俗学の手法 より

民俗学では「なにが語られたか」を、正確に受け止め、記録する。発せられる言葉をとても大切に取り扱っている。一方で、介護の現場で多く行われているらしい「言葉の裏を想像する」ということは「その言葉自体を軽く受け止めることになってしまっていないだろうか?」という指摘。介護に関わっていないぼくでさえドキッとした。「この人が言いたいことはこういうことだろう」と勝手に決めつけてしまうことで、無意識的に失われていくものは絶対にあるなあ。「自分の言葉が届かない」という側のじれったさも日常にある気がする。そのときにされていることはきっとこういうことだろうとも思う。

そこで語られる言葉に注目し、耳を研ぎ澄ますとき、なにが起こるか。「語り」は、人間にどんな作用を生むか。ぼくはそれは「尊厳を取り戻す行為」なんだと読みました。

介護業界とは縁遠い業界で働いている。介護が必要な近しいひともいない。なので、想像でしか語れないのですが、おそらく「心あるケア」みたいなものを志す人をとても励ます内容なんでしょう。「わたしもこんな働きかたがしたい!」と思う人は多いんじゃないかな。けれど、ここに書かれていることはとても高い技術に支えられていることだと読みました。だから「やりたくてもなかなかできないよ」ということではなく、おそらく、この本から受けるチャレンジはちょっとした決意をもって受け止めるべきなんじゃないかということです。六車さん、語り口の基本的な姿勢として謙遜が常にあるのです。だから「わたしにもできるんじゃないか」と思いやすい文章になっている。ここに書かれていることは、年月に磨かれた技術に支えられていると思うし、敬意をもって読みました。


そしてぼく自身が受けたチャレンジについて。
「対話的な営み」は、なにも「臨床心理士」でなくとも「認定心理士」でなくともできるのだということ。

「対話からすべてがはじまるんじゃないか」「聞いてもらえたという実感はモノを売るという領域においても想像以上に大きな力を持つんじゃないか」と感じることが多くあり、漫然と「聴くことや対話を軸に生きていきたいのではないか」という想いが強くなっていたタイミングが年末年始にかけてあった。けれど「聴くこと」や「対話」は必ずしも職業の名前に限ったことではなく、自分自身がおかれた環境で実践していくことなのかもしれない。

六車さんの「民族学を介護の現場で実践した」という事実は、ぼく個人として、「聴くことや対話を大切にしながら生きていくって、こういうことなのかもしれないね」と教えてもらったように受け止めています

「聴く」ということがだれかを支えるような、尊厳を取り戻すような強さを持つことがあると知っている。それは奇跡のようなことだ。
そんな奇跡のようなことが起こるとしたら、感情的に目のまえのひとに没入するのではなく、専門知識という足場から離れず、それでも心はその人によせるといった「聴く」の技術が支えになっていると思う。
「優しさは、技術だ」というコピーがバズっていましたが、それは「聴くことが技術であるから」に拠るところが大きいからじゃないかなあ。

六車さんの記録は、だれかが大切にはぐくまれた技術が起こした奇跡の記録で、そのことから大きなチャレンジを受け取りました。


『アマゾンと物流大戦争』角井亮一 著

仕事のなかで、広い意味で同じセクションに物流チームがある。そのチームがめちゃくちゃ調子よく、少しお手伝いする(といっても、ほんの少し。数時間といった程度)機会があり、業界の概要だけでも知っておきたいなーと思い読んだ。2016年の本なんだけれど「物流業界の概観を理解する」という点で良書だと思います。日本の物流の歴史、2016年時点での最先端を知ることができる。

それ以上に印象に残ったことが、いまさらすぎて恥ずかしいぐらいなんですが、Amazonすごいということだ。Amazonすごい。いうまでもないですね。Amazonの物流もめちゃくちゃすごいということもこの本でより知れるのだが、「Amazonの圧倒的なすごさ」の理由。それは「Amazonは顧客体験を優れたものにすると事業が成長するようにデザインがされている」ということみたい。

Amazonにとって物流機能はあくまでミッションを達成するための手段。Amazonのミッションは「最高の顧客体験を提供すること」、すなわち「CXの最大化」だ。Amazonの物流を紹介してもらうなかで、Amazonがデザインしている事業サイクルのすごさが際立った。

今月、CEOを退くと発表したAmazon創業者のジェフベゾス。ジェフベゾスが創業時にナプキンにメモしたといわれるCXの最大化をはかるためのサイクルがある。物流をはじめ、いろいろな機能があるAmazonだが、ECにおいては「顧客満足度の最大化」を果たすことが事業が成長すること、というふうにデザインされている。

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ベゾスがナプキンに書いたといわれるメモ。
https://www.amazon.jobs/jp/landing_pages/about-amazon より


このデザイン、ほんとうに優れている。「なににリソースを投資すべきか」についての指針として機能するし、「わたしたちはなにをするか」が単純明快に示されている。そしてそのことが、事業成長につながる。圧倒的に。なんて美しいデザインだろう。

Amazonほどの事業規模でなくても、たとえばNPOでもこの「美しい事業デザイン」は可能なのではと感じた。なににわたしたちはリソースを注力すべきなのか、そのために気にかける指標はなにになるのか、そしてその結果、事業が成長するのか。
ちょっとしたモデルケースをつくってみた。機会があれば、このフレームワークがつかえるものなのか実践してみたい。「わたしたちの想いが多くの人に伝わるために、なにに集中すべきなのか」が言葉になると、特に小さなチームにおいては、事業のレベルが上がる気がします。ご興味ある方はぜひ連絡ください。

成長サイクル

簡素化するとおそらくこういうことになる

から

そしてこれはもしかしたら
「成長を目指す組織」は参考にできるんじゃないか?という仮説


今月も良い本に出会いたいし、深める機会があればいいなあと思っています。

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