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3-3.縄文人の盛んな海洋活動、縄文時代の貝類の装飾品と交易、漁具が語る縄文人と海、縄文人の渡海~八丈島、琉球列島への移住と文化交流~、および、[コラム]教えて! 藤田先生 旧石器人・縄文人のくらしを想像しよう!:特別展「海 ―生命のみなもと―」見聞録 その13

2023年08月12日、私は国立科学博物館を訪れ、一般客として、特別展「海 ―生命のみなもと―」(以下同展)に参加した([1])。


同展「3-3.縄文人の盛んな海洋活動、縄文時代の貝類の装飾品と交易、漁具が語る縄文人と海、縄文人の渡海~八丈島、琉球列島への移住と文化交流~、および、[コラム]教えて! 藤田先生 旧石器人・縄文人のくらしを想像しよう!」では、西広貝塚、祇園原貝塚、武芸洞遺跡、獺沢(うそざわ)貝塚、余山貝塚、大洞貝塚、倉輪遺跡、および、サキタリ洞遺跡から発掘された貝類、貝製品、漁具、陸上動物の一部、狩猟具、および、土器などが展示された([2]のp.128-137)。

 

西広貝塚(千葉県 市原市)は台地の上に形成された大規模な縄文時代後期から晩期にかけての貝塚である。国分寺台地区の東南隅、現在の国道297号線と市役所通りがぶつかるT字路の南西部にあたる。遺跡範囲は、人物埴輪で知られる山倉古墳群と一部重なっている。

遺跡は直径が150m近くある馬蹄形の大型貝塚である。ムラの周りに食べかすの貝殻などが捨てられ続けた結果、分厚い貝殻の層が居住域の平坦部を取り囲むように堆積している。最も古い層からは加曽利E式末期の縄文土器が出土するので、貝層上の遺物包含層で見つかる荒海式までのおよそ1500年間、断続的に人が暮らしていたようである。

貝層中からは、動物の骨・角でつくられたアクセサリーなど様々な遺物、自然遺物(魚・鳥・動物の骨)、および、人骨が発見される。

西広貝塚では、50体前後の埋葬人骨が検出されているので、墓場を兼ねる性格を持っていたと考えられ、また、特殊な石器や土製品が見つかることからすると何かの儀礼に使われる祭場でもあったと思われる(図13.01,図13.02,図13.03,[3][4])。

図13.01.貝層接状剥離標本(かいそうせつじょうはくりひょうほん) Part of the Saihiro Shell Midden。
縄文時代後期~晩期。千葉県市原市 西広貝塚。
所蔵:市原市教育委員会 実物。 
図13.02.貝塚に含まれていた貝類。
図13.03.貝塚に含まれていた動物骨や人工遺物。


祇園原貝塚(千葉県 市原市)は縄文時代後期から晩期にかけての貝塚である。現在の市原市役所の東側に位置し、上総国分尼寺の下層にあたる。

発掘調査では、竪穴住居跡51棟などの遺構と遺物包含層が検出され、それらから大量の縄文土器、土製品、石器が出土している。

検出された貝層は竪穴住居跡などの窪みに形成されたものを除けば密度は低く、全体的に薄い堆積である。これは、おそらく奈良時代に上総国分寺を建立する際に大規模な整地が行われたためと思われる。

整理作業の結果、縄文時代後期から晩期にかけての集落の変遷や埋葬形態の多様性を把握できるなどの成果があがり、また、貝層サンプルの分析から当時の食生活の一部を明らかにすることができた。

なお、祇園原貝塚の近くには、柄鏡形住居を検出した北野原遺跡や、ほぼ同時期に形成された西広貝塚もあるので、これらを比較することで興味深いことがわかるかもしれない(図13.04,図13.05,図13.06,図13.07,図13.08,図13.09,[5])。

図13.04.漁具。
図13.05.素材として使われた海の動物。西広貝塚の物を含む。
図13.06.上から、陸上動物と狩猟具。西広貝塚の物を含む。
図13.07.多様な装飾品。西広貝塚の物を含む。
図13.08.貝輪。西広貝塚の物を含む。
図13.09.貝製装飾品と未加工素材。西広貝塚の物を含む。


沖縄県立博物館・美術館は、平成19年度からは南城市 武芸洞遺跡(「ガンガラーの谷」内)を継続的に発掘調査し、縄文時代前期(約6000年前)の爪形文土器の包含層や縄文時代晩期(約2500年前)の石棺墓を発見した。

2008年に発見された石棺墓からは、40歳前後の男性の人骨1体がうつ伏せに埋葬された状態で発見された。人骨の腰の上にはシャコガイが、左足付近には殻頂部に孔のあけられたカサガイが副葬されていた。さらに、人骨の左前腕付近からは直径4mm程度の巻貝製ビーズが12個発見され、ブレスレットとして身につけられていたものと考えられた。

2008年は、この人骨を取り上げた時点で時間切れとなり、調査を終了した。その後、この人骨からコラーゲンを抽出し、放射性炭素年代測定(AMS法)を実施したところ、得られた年代値は約2500年前というものであった(非較正:近藤恵氏私信)。これは沖縄では縄文時代晩期頃に相当する年代である。武芸洞のものに類似した石棺墓が7基も発見された読谷村 木綿原遺跡では、5号箱式石棺墓の副葬貝から約2520年前(Gak-7052)、1号箱式石棺墓の人骨共伴貝から約3420年前(Gak-7053)の年代が得られているので(『木綿原』読谷村文化財調査報告書第5集、1978年)、これらの年代値からすれば、石棺墓はおおよそ縄文時代後期から晩期に位置づけられるものと考えられる(図13.10,[6])。

図13.10.武芸洞石棺墓に副葬された貝製品。


獺沢(うそざわ)貝塚(岩手県 陸前高田市)([7])、大洞貝塚(岩手県 大船渡市)([8])、および、余山貝塚(千葉県 銚子市)([9])でも、漁具が出土されている(図13.11)。

図13.11.時計回りに、獺沢貝塚出土の漁具、大洞貝塚出土の漁具、および、余山貝塚出土の漁具。


八丈島(東京都 八丈町)では約6500年前の縄文時代早期には、すでに縄文人がこの島に到達していた証拠が発見されている。また、約5000年前の縄文時代前期の倉輪遺跡からは、本土の縄文遺跡で発見される土器と全く同じものが多数発見されている。さらに、埋葬された人骨とともにイノシシ、イヌの遺体や、伊豆諸島北部の神津島産の黒曜石も見つかっており、縄文人が海を越えて様々な物資を運搬していたことがわかっている。イヌは家畜として連れてこられたものと考えられているが、イノシシは家畜として持ち込まれたものか、それとも狩猟対象として持ち込まれたものか、現在でも議論が続いている。しかし、倉輪遺跡から発見されている石鏃やイヌは、当時イノシシ猟が行われていたことを示唆する材料と言える(図13.12,図13.13,[10])。

図13.12.向かって左から、海の動物利用と本州や神津島から運ばれた石製品。
図13.13.向かって左から、本州から運ばれた土器と本州から運ばれた動物。


2013年11月21日、沖縄県立博物館・美術館が発掘調査を行っている南城市サキタリ洞遺跡で、8000年前(縄文時代早期)の沖縄最古の土器が発見された。今回発見された土器は、押引文(おしびきもん)土器という名前の土器である。

また、約4800年前のイヌの下顎骨なども発見された(図13.14,[11][12][13][14])。

図13.14.沖縄島の最初期の土器文化と関連遺物。

 

本記事を書くことで、私はわずかとはいえ、縄文人と海の繫がりを知ることができた。ただ驚嘆することしかできない。

また、漢字の中でお金や財産のことを表す「財」、「貯」、「買」、「貨」、「贈」、および、「賭」などの文字には、どれも「貝」という字が使われている。これは、古代の中国で貝殻がお金のかわりに用いられていたことに由来する。このことが少しとはいえ体感できた([15])。



参考文献

[1] 特殊法人 日本放送協会(NHK),株式会社 NHKプロモーション,株式会社 読売新聞社.“特別展「海 ―生命のみなもと―」 ホームページ”.https://umiten2023.jp/policy.html,(参照2024年03月23日).

[2] 特別展「海 ―生命のみなもと―」公式図録,200 p.

[3] 市原歴史博物館.“西広貝塚”.市原歴史博物館 ホームページ.埋蔵文化財調査センター.遺跡マップ.遺跡ファイル.貝塚.2022年04月18日.https://www.imuseum.jp/maibun/map/iseki_file/1/111.html,(参照2024年03月23日).

[4] 市原歴史博物館.“冊子『発掘いちはらの遺跡2』”.市原歴史博物館 ホームページ.埋蔵文化財調査センター.遺跡マップ.遺跡ファイル.貝塚.西広貝塚.2022年04月18日.https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/pdfhtml/hi_2/hi2.htm,(参照2024年03月23日).

[5] 市原歴史博物館.“祇園原貝塚”.市原歴史博物館 ホームページ.埋蔵文化財調査センター.遺跡マップ.遺跡ファイル.貝塚.2022年04月18日.https://www.imuseum.jp/maibun/map/iseki_file/1/112.html,(参照2024年03月23日).

[6] 沖縄県立博物館・美術館.“武芸洞遺跡の石棺墓と沖縄先史時代の葬墓制”.沖縄県立博物館・美術館 ホームページ.博物館.学芸員コラム.2010年01月29日.https://okimu.jp/museum/column/035/,(参照2024年03月23日).

[7] 国立大学法人 島根大学 附属図書館,独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所.“獺沢貝塚”.全国遺跡報告総覧 ホームページ.https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21367,(参照2024年03月23日).

[8] 岩手県 文化スポーツ部 文化振興課 文化芸術担当.“大洞貝塚”.いわての文化情報大事典 ホームページ.分野から探す.歴史文化.指定・登録文化財.国指定文化財一覧.http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/hist115,(参照2024年03月23日).

[9] 銚子市教育委員会 社会教育課文化財・ジオパーク室.“余山貝塚(目録)”.銚子市/銚子市デジタルアーカイブ トップページ.資料グループ選択.指定文化財(資料グループ).https://adeac.jp/choshi-city/catalog/mp110390-200110,(参照2024年03月23日).

[10] 沖縄県立博物館・美術館.“八丈島紀行”.沖縄県立博物館・美術館 ホームページ.博物館.学芸員コラム.2013年01月25日.https://okimu.jp/museum/column/072/,(参照2024年03月23日).

[11] 沖縄県立博物館・美術館.“土器の模様いろいろ”.沖縄県立博物館・美術館 ホームページ.博物館.学芸員コラム.2013年11月27日.https://okimu.jp/museum/column/082/,(参照2024年03月23日).

[12] 株式会社 琉球新報社.“沖縄最古8千年前の土器発見 南城・サキタリ洞遺跡”.琉球新報 ホームページ.今日のニュース.ニュース.2013年11月22日.https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-215637.html,(参照2024年03月23日).

[13] 株式会社 南都.“沖縄最古!約8000年前の土器ケイブ カフェから出土!!”.ガンガラーの谷 Guided tour ホームページ.遺跡発掘について.2013年11月21日.https://gangala.com/excavation/2541/,(参照2024年03月23日).

[14] 沖縄県立博物館・美術館.“沖縄県南城市サキタリ洞遺跡(調査区II)出土のシレナシジミに関する考古学的検討”.沖縄県立博物館・美術館 ホームページ.調査・研究.紀要(博物館).沖縄県立博物館・美術館・博物館紀要・第10号・2017年03月.https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/hakukiyou10/005.pdf,(参照2024年03月23日).

[15] 野村ホールディングス株式会社,株式会社 日本経済新聞社.“Column 7 日本で最初の貨幣とは?”.man@bow ホームページ.お金の歴史雑学コラム.https://manabow.com/zatsugaku/column07/,(参照2024年03月28日).

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