自分の「問い」を自分で解く楽しさ
上野千鶴子先生の『情報生産者になる』を読みました。
この本で上野先生が伝えたいこと。それは
情報消費者ではなくて、情報生産者になろうや。楽しいで。
ということです。
情報を発信するための手段が、論文。この本では、論文を書いてから発信し、プロデュース(=売り込む)ための方法やポイントを、これでもかと公開しています。参考文献含めて321ページ。先生のことはよく存じ上げませんが、人柄がにじみ出ていました。
今回は、読んで考えたことを書きます。まとめる力がなく長いので、目次を読んでいただいて、かいつまんで読んでいただいてもかまいません。
1.よい論文を書くとは、よい問いを立てること
情報を生産するには問いを立てることが、いちばん肝心です。それも、誰も立てたことのない問いを立てることです。適切な問いが立ったとき、研究の成功は半ばまで約束されているといっても過言ではありません。問いを立てるとは、現実をどんなふうに切り取って見せるかという、切り込みの鋭さと切り口の鮮やかさを言います。(p.17)
「情報とは、ノイズから出発する」と上野先生は言います。ノイズとは、自分が当たり前だと思っていたことと現実との間に生まれる、違和感や疑問のことです。そしてノイズは、ある社会の中に入り込んでいる人間より、ヨソモノの方が抱きやすい。
私は教員ですが、不登校を経験していますし、どちらかといえば学校は嫌いです(笑)。だからこそ、学校の疑問や問題に、嫌でも気づいてしまいます。問いを立てるにはセンスがいりますが、トレーニング次第で誰でも磨けるものだと上野先生は言います。その通りだと思います。
ただし、何でもかんでもいいというわけではありません。だからこそ、
「それはもう常識ですよ。」(=もう誰かが同じテーマで書いている)
「大風呂敷を広げるな。」(=問いが大きすぎる)
「資料の範囲はどれくらいですか。」(=それは検証可能か)
など、上野先生やゼミ生は「ツッコミ」を入れていくわけです。
逆に言えば、自分の好きなテーマで、かつ問題を「小さな問い」に分けて考えていけばよいということ。
ちなみに上野先生のゼミでは、アダルトビデオから女性をめぐる言説まで、とにかく学生の好きな研究をやらせてくれるそうです。その中には、問題の当事者から出発する研究も。そこでは、当事者の切実な願いや思いが「問い」になります。ある学生が上野先生に「問題ってなんですか?」と聞いたとき、先生は思わずこう答えていたそうです。
「あなたをつかんで離さないものよ。」
いやいや。上野千鶴子かっこよすぎやろ。
読みながら、深く胸をうたれました。
まとめます。情報を生産するとは、自分だけの、適切な問いを立てるということ。そして、問いを立てるにはセンスがいりますが、トレーニングを積めば、誰にでもそれなりの問いが立てられるということです。
2.「答え」ではなく「問い」を探すことが重要だ
では、学校教育はどうか。上野先生は、高等教育の中で、論文を批判的に読んだり、書いたりという機会がないことを鋭く批判されています。思えば私も、高校生の時に「この論拠は正しいか」「この主張は妥当か」などという視点でものを読んだ記憶がありません。つまり、情報を生産するトレーニングをしていないということです。
これは小・中学校でもいえることだと思います。国語でも数学でも、私の専門の社会科でも、与えられた問題について「答えを探す」ということが優先されます。もちろん、概念や知識は大事です。徳川家康が誰かも知らず、江戸時代のことは語れませんから。
しかし、「答えを探す」こと、つまり「知識を覚える」ことは、学びの手段であって方法ではないはずです。そして、与えられた答えを探すだけの学びは、いつまでたってもつまらないもので、学校を出てから役に立ちません。
私はこれまで、たくさんの実践を読み、たくさんの実践家に出会ってきました。魅力的な先生は皆、答えではなく、子どもと一緒に「問い」を立てることを大事にしていました。つまり、情報を受け身で消費するのではなく、情報を積極的に作り出すことを大事にしていた、ということです。
何よりも情報生産者になるということは、情報消費者になることよりも、何倍も楽しいし、やりがいも手応えもあります。いちど味わったらやみつきになる……それが研究という極道です。(P.11)
「道を極める」と書いて極道。
パーティは参加者より主催者の方が楽しい。
ゲームはやらされるより作った方が楽しい。
問題は解くより作る方が楽しい。
そんな、「知を生み出す知」の苦しさも楽しさも、一番に味わえるのが、自分の「問い」を立てて、自分で問いていく楽しさだと思います。そのためには、仲間からツッコミや励ましをもらうことが大切。ともに情報を生み出すこともまた、楽しみです。
3.自分の「問い」を、自分で解く学びを目指して
本を読みながら、自分の根っこにあるものを掘り、自分は何をするべきか、自分自身に問いかけました。
私は、課題を上から与えるのではなくて、まず課題をみんなで立てるということを大切にしました。これは私が考えた方法ではなく、社会科教育や社会科研究のセオリーでもあります。「単元を貫く課題」というものです。
農家についての学習なら、まずその作物を味わってみる。
貿易についての学習なら、身の回りのものがどこから来たか調べる。
歴史についての学習なら、年表を見て疑問を考える。
まだまだ、上野先生のレベルの、自分で問いを立て、自分で解くという高度な学習はできていません。しかし、日ごろの授業で、まずは社会と自分たちとのつながりを考えたり、社会的事象を改めて見つめなおして、そこから自分たちの「問い」を立てるということが大事なのだと思います。
教員の仕事は、子どもが適切な「問い」を見出せるよう手を打ち、学びを支えていくこと。そしてそれを、研究授業だけではなく、日々の授業の中で実践していくこと。そのために学び続けたいと思います。
4.Mくんとの授業づくり
そんな私が取り組んでいるのが、学芸員の卵Mくんとの授業づくりです。Mくんは大学の友人で、今学芸員として働きながら、精力的に研究に取り組んでいます。専門は中世史。資料の探し方や、地域の歴史について聞くと、的確な即レスが返ってきて、舌を巻きました。
地域というのは、「なんじゃこりゃ!」という「問い」のかたまりです。
みんな、織田信長や徳川家康のことはよく知っていても、地域の生きた歴史については知らないものです。かなり改善されてきましたが、いまだに歴史教育の主流は、民衆史ではなく政治史ですから。
しかし、小学校の社会科教育は、地域から出発します。身近にあるものから出発し、自分たちで「問い」を立て、自分たちで調べていけるのが、社会科教育のよいところ。
例えば、町の戦前の写真には、「なんじゃこりゃ!」がたくさん詰まっています。
・なぜ、今と違って商店が立ち並んでいるのか。
・いつごろから、写真のような街並みになったのか。
・そしてどのように、今の街並みになったのか。
・なぜ、道の様子が今と全く違うのか。
・家に取り付けられているものは何か。
・人々はどんな暮らしをしていたのか。
ここには書ききれないような「問い」が、写真から伝わってきます。Mくんと話しながら、私自身が知らなかった地域の歴史を発見することができました。正月の深夜に、二時間も三時間も、歴史の話をしていました。いや、どんな正月やねん。笑
5.まとめー「問い」を立てる楽しさをともに味わう
最近、教材研究の仕方が変わりました。
これまではただ漫然と教科書を読みながら、「これは一体なんだ」「なぜこうなるのか」と、ツッコミを入れながら読むようになりました。すると、概念や知識がより深く理解でき、仲間と一緒にやることで、笑い、楽しみながら研究ができるようになりました。
求められるのは「知を生み出す知」。つまり、問いを立てて解く学び。
「問い」を立て、自分たちの知恵を出し合って解いていく楽しみ。私はそれを存分に味わってきたし、今も噛み締めています。そしてそれを、子どもに伝え、生涯自分を支えてくれる、「知を生み出す知」を伝えていきたいと思います。
もし最後まで読んでくださった、物好きな方がいらっしゃれば、本当に嬉しいです。ありがとうございました。ぜひ、忌憚のない意見をお聞かせください。