これという書物に出会うためには
おはようございます!
歎異抄を読み直しています。
歎異抄に関心を持ってから、
10年くらいたつでしょうか。
はじめは読むのをあきらめました。
何が書いてあるかわからないからです。
ですので、マンガ歎異抄から始め、
現代語訳をよみ、解説本を読み、
100分de名著を経て、
ようやく原本で
何とか読めるようになりました。
はじめは仏教の単語がわからないので、
その単語を調べていると時間がたち、
1ページを読み終えられませんでした。
*
しかし、歎異抄に限らず、
新しい書物に触れるときはいつもそうです。
言葉がわからないので、
遅々として進みません。
文体もそれぞれに独特で
慣れるのに往生します。
それに何とか慣れてきて、
中身が少しずつ分かるようになります。
ただそのエネルギーや時間は結構なもので、
それに値する内容があるかわかりません。
新しいことを学ぶときは、
必ずそういう状況になります。
自分にとって意味があるかどうか
わかりませんが、
えいやっと取りかかります。
直観がすべてですが、その杖となるのは、
その書物や人物を紹介してくれる人です。
*
私の歎異抄でいえば、3ルートほどあります。
「最後の親鸞」を書いた吉本隆明さん。
吉本隆明さんを取り上げた糸井重里さん。
糸井重里さんが気になったのは、
コピーライターであった彼が
ほぼ日というインターネットで
再び世の中に出てきて、
そのHPをまねしたくなったからです。
もう一つは、
浄土真宗の僧侶、釈徹宗さん。
釈徹宗さんは彼と親交のある内田樹さん。
内田樹さんが気になったのは、
仕事で心底疲れ切った時に駅前の書店で
手にとった「疲れすぎて眠れぬ夜のために」
という書籍との出会いです。
最後の一つは、
大好きで読み込んだ司馬遼太郎さんが、
太平洋戦争の戦地に一冊だけ持っていった
書物が歎異抄であったためです。
もう一つ忘れていましたが、
中学高校が浄土宗増上寺の学校だった
ことでした。
たまたまの縁が複層的に重なり合って、
きっと何かあるに違いない
という思いに繋がり、
何気に手に取ってみたということです。
*
ここから縁の大切さ
を導くこともできますが、
私はそうではなく、
「何かある(学べる)に違いない」
と師を求め続ける構えが大切なのだと
今は思っています。
その意味では、シラバスという仕組みは
効率的ですが、あまり好きではありません。
学びの醍醐味、学ぶリスクを取る勇気
を後景化させるからです。
自分にあった飲み屋も、
ネオンサインを見て、
えいやっと入って見つけるもの
ですしね(笑)
今日もよろしくお願いします。
安島