【ヤツカミズオミツヌ】出雲の神様が島根半島を強引にお造りあそばされた話【日本神話】
どーも、たかしーのです。
今回は、日本の神話に登場する『ヤツカミズオミツヌ』について、書いていきたいと思います!
前回までは、日本最古の歴史書である「古事記」の内容に沿って、そこに登場する日本の神々を主人公にあらすじを紹介してきました。
↓現時点では、ここまでのあらすじをnoteに書きました。
ですが、今回は、そこから少し脱線して、そんな「古事記」や、海外向けに編纂された歴史書「日本書紀」にも記載がない神様『ヤツカミズオミツヌ』について書いていきます。
ヤツカミズオミツヌは、出雲国(現在の島根県東部)に伝わる神話・国引き神話で有名な神様であり、「出雲国風土記」に登場します。
そもそも「出雲国風土記」とは何か?
「風土記」は朝廷が各国の事情を把握するために編纂を命じた報告書
まず「風土記」とは何か?から入りますが、これは奈良時代、和銅6年(西暦713年)に、時の天皇であった元明天皇(第43代天皇)が、諸国に対して、土地の名前の由来や産物、地名や地形、伝承などを朝廷に報告するように、と詔を出しました。
この詔を出した理由には、諸説ありますが、一般的な解釈としては、当時の日本は、お隣り中国(当時は唐)が使っていた律令制度をマネて、日本を中央集権国家として治めようとしたことが理由とされています。
ちなみに、律令とは、律(刑法)と令(行政法)のことで、これらを定め、これらに基づいて、国家運営を行うシステムのことを律令制度といいます。
この律令制度を使うため、朝廷(当時の政府)は、地方支配の基盤を固めていく必要がありました。そのためには、まず統治すべき各国の事情を把握しておく必要があり、結果「風土記」を編纂するよう命じたとされています。
しかしながら、この「風土記」は、全国60余りの国すべてで編纂がされたはずなのですが、現存している「風土記」は、下記の5つだけとなっています。※ただし、現存するものも、全て写本です。
「出雲国風土記」(島根県)
「常陸国風土記」(茨城県)
「播磨国風土記」(兵庫県)
「肥前国風土記」(佐賀県、長崎県)
「豊後国風土記」(大分県)
この中で、唯一完本として現在まで残っているのが「出雲国風土記」なのです!※その他の風土記は現存するが、一部が欠損した状態で残っています。
「出雲国風土記」は出雲国の「風土記」
「出雲国風土記」は、元明天皇の詔を受け、天平5年(西暦733年)に完成し、時の天皇であった聖武天皇(第45代天皇)に奏上されたとされています。
この「出雲国風土記」が写本とはいえ、完本であったため、古代の出雲国がどのような姿、また伝承があったのを、ここから知ることができます。
中でも有名の伝承として挙げられるのが「国引き神話」です!
この神話は、「出雲国風土記」の冒頭、かつて島根県に存在していた意宇郡(おうぐん)の地名に関するパートで記されています。
「古事記」に登場する神々は「出雲国風土記」にも登場する
実は「出雲国風土記」の中には、これまで「古事記」に登場してきた神様がいくつか登場します。
例えば、因幡の白兎や国造り、国譲りの話でおなじみのオオクニヌシも、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ/「地上の国造った神」という意味)として登場します。
かの有名なサイコパス神であるスサノオも、神須佐乃烏命(かむすさのお)として登場します。
他にも、オオクニヌシを復活させたカミムスビ(神魂命として書かれている)も「出雲国風土記」には登場します。
これら神様の共通点ですが、いずれも「古事記」で出雲国が舞台となった話に出てくる神様であるということです。
「古事記」では、ヤマト王権の1番のライバル国が出雲国であったため、そんな出雲国の強さを強調すべく、登場する神話の4割に出雲神話を記したりもしていました。これらの神話のベースとなったのが、出雲国で古くから伝わる伝承です。
つまりは、オオクニヌシやスサノオといった神々の元ネタとなったお話が、この「出雲国風土記」には記されているということになります。
しかしながら、この「古事記」で描かれたストーリーに採用されなかった出雲国の神様もいらっしゃいます。
それが、今回紹介する『ヤツカミズオミツヌ』なのです!
ヤツカミズオミツヌの神話
「出雲」地名の由来となったお言葉
ヤツカミズオミツヌは、漢字でかつフルネームで書くと、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)という神様です。(非常に読みづらい…)
先ほど、ヤツカミズオミツヌは「古事記」には登場しないと書いたばかりですが、一説には、スサノオとクシナダヒメの4世孫である淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と同一神ではないか?ともされています。
↓スサノオとクシナダヒメの出会いは、かの有名なヤマタノオロチ伝説です。
なお、「出雲国風土記」の冒頭には、”出雲の礎を築いた神”として、ヤツカミズオミツヌが登場し、
と記されています。
これは「古事記」でスサノオが詠んだ八重垣だらけの和歌、
でも使われた「八雲立つ」というフレーズで、ここからも出雲の伝承をベースにして、歌を詠むパートを作っていることが読み取れます。
※それと同時に、出雲国を築いた神様がスサノオの子孫ということで、伝承とは矛盾してしまっていることも読み取れますが…w
ちなみに、このようにヤツカミズオミツヌがおっしゃったので、
「八雲立つ」⇒「雲がさかんに湧き出る」⇒「出雲」
で、この地が出雲となったと伝えられています。
しかしながら、なぜ「いずも」と呼ぶようになったのか?については、未だ謎のようです…。
「意宇(おう)」地名の由来となったお言葉
さて、冒頭で出雲国の「出雲」と名付けたエピソードの次に、国引き神話として語られた意宇郡(おうぐん)の地名に関する話が続きます。
国引き神話は、ヤツカミズオミツヌが、まだできてまもない出雲の国をディスるところから始まります。
ヤツカミズオミツヌ「出雲はなんか幅の狭い布みたいな、ちっちゃい国やな~。」
それもそのはず、この時の島根には、どうやら島根半島がなく、狭~い狭~い土地だったようです。
そして、こう続けます。
ヤツカミズオミツヌ「あ、そういえば元々小さめに作ったんやったな!」
どうやら、自分が作ったことも忘れて、ディスっていたようです。
そこで、ヤツカミズオミツヌは、
ヤツカミズオミツヌ「それなら、ワイが出雲を大きな国に作りなおしたるかー!」
と思い立ち、ここからトンデモナイ行動に打ってでます。
なんと、他で余った土地に綱をかけ、出雲の地まで引き寄せてから、縫い合わせようと考えたのです!
ヤツカミズオミツヌが考えた計画はこうです。
ヤツカミズオミツヌが、これらの国で見つけた余った土地に、幅の広い大きな鋤(すき)を使って、ぐさりと土地に打ち込みます。そして、まるで魚の身を裂いて切り分けるように切り離してから、丈夫な綱をかけ、出雲の地に杭をさして、つなぎ止め、土地ごと引っ張ることにしました。
志羅紀の三埼(新羅国、現在の朝鮮半島)
北門の佐伎国(島前、現在の島根県の隠岐諸島にある無人島の総称)
北門の農波国(島後、現在の島根県の隠岐諸島にある友人島の総称)
高志の都都の三埼(北陸の能登半島、現在の石川県あたり)
そのとき、ヤツカミズオミツヌは「くにこ、くにこ(国来、国来)」と言いながら、力いっぱい引っ張ったんだそうです。
こうして、引っ張り、縫い合わせた土地が、めでたく出雲国にあるこれらの土地となりました。
志羅紀の三埼 ⇒ 杵築のみさき(現在の出雲市小津町から日御碕まで)
北門の佐伎国 ⇒ 狭田(さだ)の国(現在の小津から東の鹿島町佐陀まで)
北門の農波国 ⇒ 闇見(くらみ)の国(現在の松江市島根町あたり)
高志の都都の三埼 ⇒ 美保のみさき(現在の松江市美保関町あたり)
また、土地を引っ張った際につなぎとめた杭が、西は佐比売山(さひめやま、現在の三瓶山)となり、東は火神岳(ひのかみたけ、現在の大山)となりました。
さらには、引っ張る際に使った綱は、西は薗の長浜、東は夜見嶋(よみのしま、現在の弓ヶ浜)となりました。
最後に、無事、国引きを終えたヤツカミズオミツヌは、大きくなった出雲の大地に杖を突き立てながら…
ヤツカミズオミツヌ「おえ!」
と叫びました。
この「おえ(意恵)!」と叫び、杖を突き刺したことから、この地は「意宇(おう)」と呼ばれるようになり、そこから木々が繁茂したことから「意宇の杜(おうのもり)」と呼ばれるようになったそうです。
※現在でも「意宇の杜」とされる場所が、島根県松江市竹矢町にあります。
おわりに
今回は「出雲国風土記」に登場する神様『ヤツカミズオミツヌ』について書いていきました。
なお、ヤツカミズオミツヌは、出雲市にあります長浜神社で主祭神として祀られており、国引き、すなわち綱引きのエピソードから、スポーツ上達・不動産守護の神、また、そこから連想して、幸せや結婚、お金などのお願い事を引き寄せて下さる神様として、崇敬されています。
ちなみに「出雲国風土記」には、この他にも、ヤツカミズオミツヌが「島根」と名付けた話も収録されており(厳密には出雲国にある島根郡のことを「島根」と名付けた話)、現在の島根県の地名や風土と密接な関係をもった神様であることがよくわかります。
他にも、歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!