【大伴家持】防人歌を入れたのにはワケがある!?「万葉集」編纂に関わったサラブレッド歌人【三十六歌仙】
どーも、たかしーのです。
今回は、奈良時代の歌人『大伴家持』について、書いていきたいと思います!
大伴家持とはどんな人物か?
実は名門武家の御曹司
大伴家持は、奈良時代に活躍した歌人です。
また「天孫降臨」神話に登場するアメノオシヒを祖神にもつ大伴氏の末裔であり、朝廷の軍事を司る役職も担っていました。
↓「天孫降臨」神話については、こちらをどうぞ。
「令和」の元ネタとなった大伴旅人の実子
大伴家持は、718年(養老2年)頃に、大伴旅人の実子として生まれたとされています。
父・大伴旅人について、軽く紹介をしておくと、720年(養老4年/家持誕生から2年後)、 征隼人持節大将軍に任命され、九州南部に住む 隼人の反乱を鎮圧しています。これにより、九州南部におけるヤマト王権の支配を確実なものとした功績が認められ、728年(神亀5年)に、大伴旅人は、60歳を過ぎてから 大宰帥(大宰府の長官)として、大宰府に赴任します。※ただ、この人事に関しては、左遷させられた説もあるようです。
このとき、朝廷から筑前守(筑前国の国司の長官)に任じられ、同じく九州に赴任をしていたのが、山上憶良でした。大伴旅人は、 山上憶良らとともに「 筑紫歌壇」という歌人集団を形成し、歌を詠むようになります。
↓「山上憶良」については、こちらをどうぞ。
ちなみに、元号「令和」は、日本最古の歌集『万葉集』が典拠となっていますが、その元ネタとなったのは、 大伴旅人が大宰府の邸宅で開いた歌会「梅花の宴」からでした。
↓「令和」の元ネタの話については、こちらをどうぞ。
『万葉集』編纂者のひとりとされている三十六歌仙の歌人
大伴家持は、万葉集の編纂に携わり、多くの歌を残したことでも知られています。『万葉集』全4,516首のうち473首を大伴家持の歌が占めており、これは万葉歌人の中で最多です。※ちなみに作者不詳は2100首以上あります。
さらには、『万葉集』最後の4巻は大伴家持の歌が中心となっています。
また、大伴家持は、三十六歌仙のひとりに選出されています。
この三十六歌仙には、あの歌聖と呼ばれた柿本人麻呂も選ばれています。
↓「柿本人麻呂」については、こちらをどうぞ。
繊細で優美な歌風、一方でプレイボーイな歌も
大伴家持は、父・大伴旅人が大宰府に赴任する際、それに従ったとされています。(このときの家持は10歳ぐらいのはず)
そのため、歌人でもあった父・大伴旅人の影響を多分に受けたとされています。また、同じく「筑紫歌壇」の歌人であった山上憶良の影響も受けたとも考えられています。
大伴家持の歌は、繊細で優美な歌風であり、特に、音や気配といった「日本人的な感覚」をうまく言葉で表現したことで、後世においても高く評価されています。
大伴家持が残した歌として、次のようなものがあります。
これらは『万葉集』屈指の名歌と名高い歌であり、「春愁三首」と呼ばれています。哀愁漂う作風には、父である大伴旅人の影響も感じられます。
かと思えば、プレイボーイとしての一面も持っており、こんな歌も詠んでいます。
つまり「三日月を見たら、キミの眉を思い出しちゃう」といったラブソングも、大伴家持は詠んだりしていました。(どんな眉やねん!)
大伴家持と『万葉集』
※なお、この内容については、NHKの番組「100分 de 名著」の「万葉集」回に登場された佐佐木幸綱先生(国文学者・歌人)の見解を参考に、まとめさせていただきました。
『万葉集』最後の歌
大伴家持は、父・大伴旅人の死後、大伴家の後を継ぎ、官人(朝廷に仕える役人)として、数々の職務をこなしました。
738年(天平10年/家持20歳) 朝廷にはじめて出仕。
746年(天平18年/家持28歳) 越中守(現在の富山県の地方長官)に任ぜられて地方官として勤務。
このとき、大伴家持は、歌人として223首もの和歌を詠んでいます。
755年(天平勝宝7年/家持37歳) 難波(現在の大阪府大阪市)で、防人の 検校(防人を集める責任者)に関わる。
おそらく、このときの防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながったと考えられています。
758年(天平勝宝7年/家持40歳) 因幡守(現在の富山県の地方長官)に任ぜられて再び地方官として勤務。
大伴家持は、この因幡守であった時期に『万葉集』最後の歌を詠んだとされています。
大伴家持が収集した「防人歌」
大伴家持は、その後も、朝廷へと戻っては、またすぐに地方官に任じられるなど、何度も中央と地方を往来しながら、各地で官人を歴任していきます。その傍らで『万葉集』の編纂に関わったとされています。
大伴家持が収集して『万葉集』に収録した歌があります。
それが、防人が詠んだ歌「防人歌」です。
「防人歌」は『万葉集』の巻13、14、20に収録されていますが、巻20に収録された歌は、大伴家持が収集した歌であるとされています。
防人とは、日本の飛鳥時代から平安時代にかけて、律令制度のもとで行われた軍事制度であり、かつ、この制度により北九州地方の防衛に当てられた兵士たちのことを指します。
防人は、663年、倭軍(日本軍)が、白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機となり、唐が攻めてくることを恐れ、九州沿岸の防衛のため、設置がされました。また、主に東国地方の農民から任期3年で徴発されていました。東国地方である理由は、すぐに故郷へと逃げられないようにするため、と考えられています。
こうした防人の厳しい現状を目の当たりにした家持は、 難波で防人の検校に関わっていた頃、防人から歌を収集していました。
実際、『万葉集』には防人歌が93首も収録されています。
ただし、そのまま集めて収録したのではなく、あくまで家持が選んだ歌であり、また、家持が赤ペン先生をした歌も、中にはあったようです。
「防人歌」は、そのほとんどがつらい歌であり、離れ離れとなった家族をテーマとした歌が詠まれています。
また、大伴家持が収集した「防人歌」には、このような歌は収録されています。
どれも、今では計り知れないほどのつらさが歌から伝わってきますね。
ところで、大伴家持がなぜ「防人歌」を収集したのか?ですが、これは官人である家持が、国家的政策による防人に関する情報収集の一環として歌を提出させたという説があります。もちろん、家持はいわば国家公務員ですので、その通り命令に従って、動いたのだとは思います。
ですが、晩年になり、これら「防人歌」を『万葉集』に多数収録させたのは、おそらく家持個人の想いがあってのことだと思います。
大伴家持は、現場で防人の現状を目の当たりにしてきました。
また、家持が『万葉集』を編纂したであろう頃には、白村江の戦いからすでに100年以上が経過をしていました。
こうした背景から「もう防人をやめてもいいのでは?」ということを、家持は『万葉集』を通じて伝えたかったのかもしれません。
東国の人の方言や訛りがそのまま収録された「東歌」
余談ですが、「防人歌」も収録された『万葉集』巻14は、他の巻とは異なり、東国の人たちの歌で構成されています。このような歌のことを「 東歌」と呼んでいます。
「東歌」の特徴は、当時の東国の人たちが話していたであろう方言や訛りがそのまま収録されていることです。
例えば、巻14に収録された「東歌」に、以下のような歌があります。
この歌の太字部分は、東国の人たちの訛りと解釈されています。
なので、これらの訛りを、京の言葉に直してみると…
このような表現になります。
ですが、『万葉集』ではこのような修正はせず、東国の人たちの訛りをそのまま万葉仮名として、漢字に当てはめたので、後世の私たちが訛りもこみで、歌を詠むことができるというわけなのです。
大伴家持が収集した『万葉集』巻20の「防人歌」にも、こうした東国の人たちの方言や訛りがそのまま入った歌が収録されています。
おわりに
今回は、『大伴家持』について、書いていきました。
ちなみに、大伴家持は、小倉百人一首でも「中納言家持」として登場します。しかしながら、その歌は、あれだけ歌を残した『万葉集』にはなく、のちの『新古今和歌集』に収録されています。(マジかよ…)
他にも、歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!