毎日書き続けたエッセイは活動の種
250日ほど毎日エッセイや日記、何かしらを書き続けた。このエッセイでいったん毎日書き続けることを終わりにする。エッセイを毎日書き続けることで、ぼくが得たもの、書き続けた意味を、自分の整理も含めて書く。
noteを毎日更新する意味について、今も感心を持つ人がいるかわからないが、一応書き続けた上で言えることは間違いなく意味はあった。ただ、それは毎日更新したことにではなく、目的とやる意味を考えて行動したら、それが結果的に毎日になったと言った方が正しい。毎日更新する意味は人によるだろうが、最大の効果は自分の変化を自分が感じられることにある。自分用の日記ではなく、公開しているブログだからこそ分かる変化と、経過した時間に意味があるからだ。
ぼくが元々、毎日noteを更新しようとした動機は、「毎日書くことで考える習慣をつける」「純粋な人となりを知ってもらうため」「自分にとって何でもない話が人の役に立つ時がある」「ライターとして仕事を増やすことに繋げる」だった。2020年9月25日に投稿したnoteでそう語っている。ただ読み返すと分かりやすく、4つの理由の裏に明らかな本音が隠れている。それは「人の役に立つことしか書いてはいけないのか?」ということ。当時のぼくは、人の役に立つ情報発信も大事だが、自分の書きたいことを書くことも大事だと主張している。そのような投稿をすることで、無名の自分でも応援コメントをいただいたり、クラウドソーシングなしで直接仕事の依頼が来たりしたことをあげ、数少ない実績を例に上げながら主張していた。
そしてその主張は今も根本的には変わっていない。発信は、自分の書きたいものを書きたいように書けばいいのだ。伝えたいことがあり、伝えたい人がいて、成し遂げたい何かがあるのなら立派に書く理由が存在する。それは有名でも無名でも変わらない。だから好きなことを発信すればいい。役に立つかどうかよりも、面白くない読み物は誰にも読まれないという、ただそれだけのこと。情報記事のような広告記事と違って実力勝負からは逃げられない。毎日noteを書きながらずっと考えてきた発信の意味。それをぼくは、あるコミュニティに入ることではっきりと分かった。ぼくが発信したいものは、ぼくにしかできない価値のある読み物だ。誰かに言われたのでもなく、世の中のニーズを伺うのでもなく、読み物として面白いものを作り、読んだ人に「これは面白い」って言われる読み物。だから、コミュニケーションとしてのアウトプットを、更新日時というものに縛られることを、ここで一旦終わりにする。
毎日書き続けてきたエッセイはぼくにとって、ちょっとした支えでもあった。SNSを通じて色んな人が発信する情報を見て、ぼくには何もないことを凄く焦っていたのだろう。そんな中、自分にできることは「継続」しかなかったのだ。誰よりも長く続けることだけが、他人から凄いと言ってもらえることもあり、自分にとって唯一の支えだった。だけど、その意味は、毎日書き続けることで段々と変わっていった。毎日書いているエッセイが自分の支えだったからこそ、そのこだわりも強くなる。だから絶対に何かに活かそうと考えていた。そんな時、インターネット界を牽引してきた「けんすう」さんがあるツイートをしていたのを見る。それはエッセイとは何の関係もない、仕事ができる人についての内容だったのだが、その内容というのが「一つの行動で二つも三つも成果を生み出す人ができる人」という意味の内容だった。それを聞いた時、ぼくのこのエッセイは何通りにも発展する行動、すなわち「種」だったのだと気づくことになる。
毎日、毎日、書き続けたむき出しの思考は、今は荒いところばかりで、自分目線でしかない。内側ばかりで外との関係性が描かれていないものが多いのだが、まだまだ何度でも書き直せる。読み返して書き直すことで、ちゃんとしたエッセイ集を作れる。まだこのエッセイは完成していない種だ。そして、このエッセイ達は、他のアクションも生み出している。ファンを増やすこと、仕事に繋げること、さらに英語の翻訳も交えて教材にもなろうとしているし、書いてきたものを読み上げることで音声コンテンツにもなった。様々なアクションが、毎日書き続けたエッセイから生まれた。これまで書き続けてきたエッセイは今後の活動の種。一夜漬けではできない活動の種を250日ほどかけて作ってきた。
やはり、毎日継続してやり続けることには大きな意味がある。その意味の大きさは、自分がその行動でどうしたいかという理由と目的によって変わるだろう。noteでの毎日更新ということを辞めただけで、ぼくが毎日書き続けるのは変わらない。これからはちゃんと自分が納得して、面白いと思えるものを世に送り出す。ただ、最後の最後まで変わらなかった芯は、これからも変わらないだろう。「自分が書きたいものを書く」、自分が本当に面白いと思った作品を書く。そして、その作品を他人に認めてもらうからこそ意味がある。これは「たかしお」としてというよりも、本人としての意思が強い。これから記事を書くことは実名で取り組み、「たかしお」としては変わらず自由にコミュニケーションを続けていく。たまに更新するかもしれないが、基本はエッセイ集をつくるまではこれまでの記事を読み直して書き直したり、選定したりしているだろう。本気で書くことに集中した文章は、自分のサイトで公開する。
最後にもう一度だけ言いたい。毎日更新し続ける意味は確かにあった。これは、自分がしてきたことを肯定したいから言っているのではなく、どう悪く見ても得るものばかりだった。かけた時間以上のものを得ている。毎日更新する理由と目的は、やり続けながら変わるもの。だから、自分に何も無いと思ったのなら、とりあえず更新を続けるということは良いことだ。それを、フォロワーやスキという数字に縛られずに取り組むことが重要で、外に流されず自分の作品作りに集中した方が、尚良いだろう。だからこそ、目的や意味が大事だ。二つ目の100本エッセイを書き終えたことで、明確に毎日更新する意味を人に話せるようになった。また、違う形で書き続けることで、次の問いにチャレンジする。
たかしお(大久保 崇)