見出し画像

生き辛さへの対処 自動思考と自己理解

学生の頃もそうですが、社会人をやっていると大抵の人にはシンドくて逃げ出したくなる時期があります

かく言う私も17歳から24歳までの自立の過程と、30歳代の前半からの10年余り、結婚して子供が生まれた辺りから子供が中学卒業するくらいになるまでが本当に辛かった

特に後半の30~40歳代は、社会人としての自立、部下の管理、個人と部署両方のノルマ、鬱からの転職、家庭の大黒柱、人の親、等々、気ままに一人で生きてきたのが、色んな柵や役割を求められるようになって「◯◯ねばならない」にがんじがらめに縛られて、身を削られているような思いをしながら毎日を凌いでいた頃でした

何と言ってもそれまでの自分の自己イメージから大きく離れてしまい、それまでの価値観や志向が否定されたり別の価値観に塗り潰されたりで、自己肯定や自己承認できる機会が皆無になったのです

そんな辛い中でも一番自分を苦しめたのが自動思考でした

部署を預かる管理者としての仕事を与えられるようになると、つい「こんな沢山の仕事こなせるはず無いじゃないか」と思ったあとに、もう自分一人でするのではなく部下を使って仕事しなきゃいけないんだ、と思い直したり、部下に仕事を指示するにしても「なんでこんな事できないんだ、こんなことなら自分で全部したほうが楽なんじゃないか」とマネージメント全否定の考えが浮かんだりしたあとで必ず「自分はなんて無能なんだ」「自分には管理者は荷が重すぎる」と落ち込んでいました

家庭でも、独り身から結婚し父親となり、仕事に疲れて帰ってもそういった役割からくる雑多な家事や育児の手伝いに「あぁ面倒くさい煩わしい」と思っては「父親なんだからもっと子供の手本となって」「こんなんではいけない」「なんてだめな父親なんだ」と自己卑下し、頑張ってしようとしても焦りや葛藤から上手く行かずに苛ついて、自分の言う通りにならない子供に対してつい怒鳴ったりしてはその度凹んでばかりいました

毎日が辛く、何とかこの状況から抜け出たいとは思っていましたが、どうすれば良いか分からず常にどこかイライラしながら生きていました

しかし、そんな状況がひょんなことから変わり始めました

当時、たまたま人事の仕事に必要だとの判断から、個人で産業カウンセラーの養成講座を受けました

その養成講座で、実技指導として受けた自己理解セッションが私を変えてくれたきっかけになったのです

それは、実技講習の一つとして、受講生がカウンセラー役とクライアント役、観察者役に分かれて、クライアント役は相談事を自分で決めて10分間カウンセリングをし、その後振り返りと称して全体で講評をするというものがありました

そうやってクライアントの接し方を学ぶと同時にカウンセラーとして自分自身を見つめ直すってのが趣旨だったと思います

そんな講習の何日目かに私がクライアント役の番が来て、普段から気にかけていたことをつい素直に「なんかいつも心の何処かがささくれているんですよね」と発言したところから、カウンセラー役の「ささくれているんですね」「そのお気持ちをもう少し違う言葉で伝えていただけますか?」と返され、図らずも段々と自分の中の上手く言葉にできない感情と向き合うことになっていったのです

具体的な内容は省きますが、そうやって自分の中の言葉にならないイライラを、カウンセラー役の受講生に手伝ってもらいながら少しづつ言葉にしていった結果、「心のささくれ」には「自分に対する不甲斐なさ」「他者に対する怒り」「めんどくさい」「どうせ俺なんか」等の感情が繋がっていることに気づきました

その後「イライラ」や「あきらめ」等が何故生まれるのか、自分のイライラを感じているときに何が思い浮かぶか、現状の問題が解決したら全てスッキリするのか、その時の気持ちを色んな言葉で言い換えることでどんな言葉が気持ちにしっくり来るか、などをカウンセラー役の手助けも借りながら言葉を連ねていきました

そして何度目かのセッションと自己内省を経た後、それらの奥底には10代から20代前半までに解決してこなかった「親に認めてもらえない悲しさ」だったり、「自分より弟の方を大事にしていた寂しさ」からくる親への恨みや憎しみ、更にそこから来る自己憐憫と自己嫌悪と罪悪感との葛藤があって、現状の諸問題が引き金になって心の表層部に湧き上がっているイメージが「心のイライラ」だったり「心のささくれ」という言葉になったいるんだと気づきました

そんな内省を繰り返していたある日、講習会の帰りに立ち寄った喫茶店で、なんの脈絡もなく突然、私が子供だった頃の当時の親と今の自分が同じような年令になっており、対等な大人同士だと閃きました

すると、自分だけでなく親にも未熟だったり不適正な行動があったことに気づいて、
当時の親の年齢なら、あんな未熟な言動もしょうがないかもしれないな
でもあんな事されてたら、子供だった自分が恨むのも憎むのも当たり前だよな
と、心の底から理解した時、自分の心の奥にあった蓋が開いたように色んな感情が言葉にならないまま溢れ出し、40歳を超えて人目をはばからず涙を流し続けていました

そして涙を流すほど、私の心にまとわりついていたイラつきやモヤモヤがポロポロと剥がれ落ち、その中にあった何かが、光りながら風船のように膨らみ浮き上がっていくのを感じていました

人から見れば虚空を眺めながら涙を流し続ける不審者以外の何者でもなかったのでしょうが、そのプロセスを通して、初めて親と自分を赦すことができた、と実感しました

そうして自分自身と向き合い、自分を理解し、認めて、赦せたことは僥倖でした
なぜならその後、それまで苦しめていた自動思考が少しずつ軽減されて行くからです

それまで苦しかった「◯◯ねばならない」から距離を置けるようになり、「できなくてもなんとかなるさ」「◯◯できれば良いなぁ」と柔らかい思考ができるようになっていきました

もちろん業務ノルマなどはできなければ上司から詰められますが、どんなに詰められても言葉を変えればそれは単なるお小言です
問題は達成できていないノルマなのですから、問題点の抽出と対策を実行さえしていれば後ろめたさを感じる必要はありません ただ行動すればよいのです

上司に詰められて辛くなるのは、上司の叱責が自らの「◯◯ねばならない」という思いを補強し自分を攻撃してくるだけなのです

こうして「◯◯ねばならない」の仕組みが理解できていれば「なんとかなるさ」と自己暗示をかけて流してしまえば、上司の叱責は奮起のきっかけにしかなりませんしノルマ達成にその分注力できるようにもなります

結局「◯◯ねばならない」とは、「◯◯でなければ(自分が)許せない」でしたが、それができなくても自分を赦すことができるようになったことで、前向きに、積極的に成れたのです

だれしも何か心に傷やささくれを抱えて生きていると、私は思っています

これまで書いた私の体験以外にもいろんな方法で心のささくれを癒す方法があると思います

そんな一例として、皆さんの生きるヒントに成れば幸いです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?