マガジンのカバー画像

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

189
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
¥300
運営しているクリエイター

2021年6月の記事一覧

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (84) 就職事情(続)

 安倍さんの友人に宮本和吉(わきち)は、後年、安倍さんの妹のせつ子さんと結婚した人ですが…

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (85) 研究科と大学院

 中先生の大学時代は明治39年9月から明治42年7月までの3年間ですが、この時期の中先生の消息…

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (86) 病床にて

 明治42年の秋から翌年の晩春初夏にかけての病気のおりの消息は、中先生のエッセイ「病床」で…

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (87) 漱石先生を見舞う

「先生の手紙と「銀の匙」の前後」によると、病気の中先生にとって明治42年の中家の状況は思わ…

4

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (88) 一年志願兵

次に引くのは「病床」の一節です。ある日の末子さんの姿が描かれています。 《姉が枕もとに坐…

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (89) 漱石先生の手紙

 一年志願兵に応じた中先生が入営したのは12月1日。入営先は近衛歩兵第四連隊で、第六中隊第…

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (90) 信州野尻湖へ

 野上豊一郎は明治16年9月14日に大分県臼杵に生れました。臼杵中学から明治35年に第一高等学校に進み、中先生、山田さん、安倍さんたちと同じ英法科文科の同級生になりました。文科大学では文学科に所属し、中先生の1年前の明治41年にイギリス文学を受験して卒業しています。卒業後は研究科に在籍しつつ国民新聞社の文芸記者になり、翌明治42年、法政大学の講師になりました。臼川という号は出身地の臼杵からとられています。

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (91) 生活問題と細君問…

 明治42年7月に文科大学を卒業した中先生はこの年の秋から病気になり、 そのまま年をこし、明…

3

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (92) 徴兵検査

『折蘆書簡集』からの抜き書きを続けます。5月25日付の郷里の兄魚住正継への手紙では徴兵検査…

3

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (93) 如何にしてパンを…

 明治42年8月16日付の田中きゑ子さんに宛てた魚住の手紙の紹介を続けます。田舎の中学の教員…

4

須磨浦療病院と須磨保養院

この記事はマガジンを購入した人だけが読めます

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (94) 野尻湖畔散策

 野尻湖畔にはこれまでに2度出かけたことがあります。一度目は昭和51年(1976年)夏のことで…

4

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (95) 草花を摘む

 詩碑が完成して除幕式が行われたのは昭和48年11月24日と記録されています。「ほほじろの声」…

2

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (96) 詩碑建立

 中先生の詩碑のある公民館は正確に表記すると信濃町公民館の野尻湖支館です。昭和48年、造園記念事業のひとつとして記念碑を建てることになり、藤木信滉さんに資料作成の依頼がありました。かつて琵琶島の島守になった一時期のある岩波茂雄と安倍能成。「けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た」と始まる作品「晩夏」(昭和15年)の著者の堀辰雄。野尻湖研究で知られる地理学者の田中阿歌麿(たなかあかまろ)。それに、野尻湖畔に家を構え、「はや釣り先生日記」のような野尻湖を舞台とす