今日の大学院の授業にて。
今日の大学院の授業でnoteが出てきた+抽象化することの多い授業でなんだか頭の中で何かが繋がった、ので、雑多に書いてみました。
〇トップクリエイターしか儲からなかった業界で、ミドルクラスも食っていけるビジネスを成立させられないか
授業ではnoteとSubstackの例が挙げられていたが、特にSubstackではファンを千人集めることができれば、それなりに食っていける。
noteはそこまではいかないことが多いけど、小遣い稼ぎ程度にはなる。
物書きや記事で食っていく人にとってはこの「現実的に不可能ではない数で食っていける目途が立つ」すなわち「1.5流でも食っていける」ことはすごく重要。
実は先日の診療中に似たような話があったところだ。
声優を目指してダブルスクールをしている高校生がいるのだが、とはいえ声優業界は「超一流しか食っていけない世界」である。
モブ役はその場にいる誰かが声を当ててしまうのでエキストラがなく、演劇や役者よりもさらにパイが少ない。
それでも彼はそれをやりたいので頑張るのだけれど、しかし一方で彼のように頭が良くて戦略的にものを考えられない一般的な中高生たちが「超一流しか食っていけないビジネス構造である」がゆえに夢を諦めていることも多いのだろう。
…とここまで書いてふと思い出したのが、日本のサッカー業界の構造の話である。
雑にまとめると「選手になりたくて頑張っていれば、結果的に選手になれなくても周辺業界でサッカーに関わりながらなんとか食っていけるように産業のすそ野を広げた」と理解している。
こういうある意味での「セーフティーネット」を業界が用意できると、結果としてその業界にチャレンジする若者が増えるのではないか。
これって業界にとっても本人たちにとっても良いことだよね。
もっと子どもたちの夢を応援できるように(そして自分たちの業界が繁栄するように)、大人たちは張り切るといいと思うのだ。
〇「名前をつけると概念ができる」の話
今日の授業では「シェアリングエコノミー」「クリエイターエコノミー」という単語が出てきた。
こちらの業界では、そういった構成概念ができることによって「そういえば我々のサービスもそうである」と、自分たちのサービス内容や立ち位置を再定義するものが出てくる。
これ実は「発達障害」とか「不登校」とかも同じ。
こういう「なんだかよく分からなかった状態」を「モデル化」することによって、なんだか分かったような気になる。
N教授いわく「モデルは現実を正確に表現したものではなく、現実を抽象化した構成物であり、常に別の切り取り方の可能性がある」とのことだった(意訳)。
と考えていくと、やっぱり発達障害を「特定のきちんと規定された障害」と切り取ることに対する僕の違和感にもなんとなく説明がつくというか・・・(いやそもそも症候群じゃんと思ってるし)
僕は割とフレームワークに振り回されるタイプだし、そうやってモデル化して単純化した方が「とりあえずの理解」には近い。
その方が僕も説明が簡単だし、保護者の方にも分かりやすい。
そこから本質に近付くためにはその「単純化した/一面から切り取ったモデル」の当てはまりを何度も検証しながら(=「こういうふうに見てみるとこの子の行動や状態に説明がつくかな」を繰り返しながら)切り取り方を少しずつズラしていく、という方法は悪くない気がする。
いつまでも「まだ理解する途中」であることを諦める、という感じだろうか。
〇広く認知されるより100人のコアなファン
クリエイターエコノミーではSNS等で広く知られるよりも、継続的にコミュニケーションが取れる少数のコアなファンを確保すべきだと。
これを僕が関わる子たちへの支援、という視点に落とし込むとどうなるか。
誤解を恐れずに言えば、社会全体がその子に受容的である必要は必ずしもないのではないか、という視点があり得るということだ。
つまりそれは、「その子が楽しく暮らすために、社会全体の変革は必須なのか?」という問いでもある。
コアなサポーターがいれば、実はその個人の暮らしは割とよくなるよね、という感じである。
でも確かにリアルなコミュニケーションが取れる範囲、生活としての「手が届く範囲」を充実させることが重要なのは臨床感覚・生活感覚とも一致している。
結局生活って「社会という概念の海に浮かぶ小舟の中と行ける範囲」で行われてるもんなー…
これは引き続き悩むべき課題。