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SNS時代の表現

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SNS時代の表現について書いた自分の文章を集めたマガジンです。
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#考察

現実のインフレとしてのメタバース(あるいは「異化の無効化」とアートの再構成)

(1)アートとは異化である(と個人的に思う)アートって、いろんなジャンルがありますよね。絵画や音楽のような伝統的なアートから、比較的新しい写真、さらには映画もアート文脈で語られます。それぞれのアートは特有の歴史を持ち、磨き抜かれた専門の知識があり、そして出力するための違う媒体を使うので、アートと一括りに言っても一見共通項はほとんど見出せません。でも一つ、「アートとは何をやっているのか?」という問いに対する自分の見解を書くとするならば、次のように考えています。 アートとは、現

21世紀の「善悪の彼岸」(あるいはキャンセルカルチャーの果ての世界)

今日は好きな映画の話から始めさせてください。ポール・ハギス監督の「クラッシュ」という映画について。確かアカデミー賞を取ってるはずです。どういう映画かというと、典型的な群像劇で、数人の登場人物たちがその運命を絡ませながら、ある1日に起こる物事の顛末を重層的に描き出すというものです。それぞれの物語はエピソード的に独立しつつも、映画の途中で登場人物たちが混じり合い、予想もしなかった結末を辿ることになります。時にそれはささやかな救済に、時にそれは救いのない悲劇に。物語の中心のテーマは

「正しさのない世界」を生きる覚悟

1.正しさとは2020年の秋、18歳の高校生の女の子が、ある曲をこんな風に切り出し、日本の音楽シーンに鮮烈な閃光を放ちました。 「正しさとは、愚かさとは、それが何か見せつけてやる」 もちろん皆さん、もうご存知ですね。Adoさん(@ado1024imokenp)の「うっせぇわ」の出だしです。 それから3ヶ月後、2021年が明けてすぐ、あるクリエイターが「正しい顔」をテーマにした漫画をTwitterで投稿、瞬く間に話題になりました。ヨシカズさん (@ArochamoCOM)

SNS時代における「人間のコモディティ化」

今日は最初にまとめを書きますね。SNSと表現にまつわる「ある現象」について、1月頭にこんな記事を書きました。ずいぶんたくさんの人に読んでいただきました。 この中で、「コモディティ」という言葉を取り上げました。経済用語ですが、「代替可能な製品」という感じの意味です。2020年代は、あらゆるクリエイティブや表現が、SNS上において「コモディティ化」の危機に晒され、その速度は加速化される運命にある、というようなことを書きました。これはたぶん避けるのが難しい未来だと思っています。

SNS時代における「物語」の意味

前回、前々回の記事の中で、コモディティ化するSNSにおける表現について書きました。その中で、そのような事態がさらに進展することが予見される20年代においては、物語が重要であるという結論を書きました。 最後の方で「how化できない視線として「物語」が存在する」と書いたんですが、具体的にはそれは一体どんな物語なのかは書けていませんでした。今回は、20年代のSNS空間における「物語」とはなんなのかを考察します。結論は一言でまとめられるんですが、「創発的なコミュニケーションを内包し

表現のコモディティ化と感受性の無気力化

今日の記事は前回の文章の続きの話になります。前回の文章が「SNSにおいては表現がことごとくコモディティ化してしまう」という話でした。そして記事の冒頭にあとから付記した大事なことなんですが、あの文章は「システム論」なんですね。言い方を変えると、「個人の力では逃れることができない巨大な動き」の話でした。そして今回はそのシステムに巻き込まれた我々人間に何が起こるのかということです。前回が「作り手」側の視点での話だったとすると、今回は「受け手」側の視点からの分析です。 再び最初に要

SNS時代における「表現のコモディティ化」

今回の文章は、この2年ほど色々書いてきた「SNS時代の表現」というテーマの、現状におけるまとめみたいな話になります。最初に要旨を書くと、たった一文でまとめられます。それはこういうことです。 SNSにおける情報伝達の超高速化によって引き起こされる「表現のコモディティ化」に、我々はどうやって抗うのか。 この場合のコモディティ化とは、「ある表現が瞬く間に代替可能品で溢れかえるようになること」を指します。つまりSNS時代、特に今後5Gが整備され、情報伝達がさらに加速化し、空間の距

2020年代に表現するということ(あるいはマイケル・スタイプの電話帳)

1. マイケル・スタイプの電話帳昨日こんなツイートをふと書きつけました。 伝説として知っているだけで、本当にマイケル・スタイプが言ったのかどうかわかりません。インタビューだったか対談だったか、そんな中で言った言葉らしいのですが、googleで調べてみても出典を見つけることはできませんでした。まあでも、マイケル・スタイプなら確かに電話帳読んだだけでも人を泣かせることができるかもしれないと思わせる声をしているのは確かです。 今聞いても全然古く聞こえない。これもう30年近い前の

SNSのセンチメントに巻き込まれないために

先日SNSについて書いた文章を割と多くの方に読んでいただきました。ありがとうございます。 それで思ったんですが、やっぱり我々はSNSからはなかなか逃げられないんだなと。みんななにかSNSの良さだったり悪さだったり、可能性だったり居心地の悪さだったりを考えようとしているのは、それがもはや生活から切り離せないということを意味していて、そうであるならば、SNSについて考えるのはある意味では「現代の生き方」そのものを考えることに通じるんじゃないかという気がしてきました。知らんけど(

SNSはなぜ「疲れる」のか

気づけば秋風吹く10月。8月ころ「今年の夏はたくさん文章書くぞー!」と意気込んだものの、仕事に追われ、花火に追われ、期末テストと採点に追われ、気がつけば新学期再開で再び仕事に追われ。フリーランス兼大学教員というのは、よほど上手く回さない限りやっぱりどこか無理があるんだなと実感している今日このごろです。 空いている時間も無いことはなかったのだけど、その空き時間はだいたいリオレウスを延々狩ったり、メタスラの剣を手に入れるために歩き回ったり、深夜枠でワンス・アポン・ア・タイム・イ

人間は物語なしでは生きられない(あるいはインフルエンサーとはどの様な「影響力」を行使するのか)

最初に概要を二段落でいいます。2018年現在、19世紀末に一度は死を宣告されたはずの「物語」が、再び大きな意味を持つ時代に入りつつあります。この場合の「物語」は「起承転結」を持ったいわゆるプロットとは少し違います。勿論それも含むのですが、この文章で言及する「物語」とは、「言語が多層に流通する空間」のことを指していると考えてください。「物語空間」とでも言うべきものです。 そう、大事なこととは、世界は基本的に「物語」の流通で動いているということなんです。かつて物語とは大きな宗教