SNSのセンチメントに巻き込まれないために
先日SNSについて書いた文章を割と多くの方に読んでいただきました。ありがとうございます。
それで思ったんですが、やっぱり我々はSNSからはなかなか逃げられないんだなと。みんななにかSNSの良さだったり悪さだったり、可能性だったり居心地の悪さだったりを考えようとしているのは、それがもはや生活から切り離せないということを意味していて、そうであるならば、SNSについて考えるのはある意味では「現代の生き方」そのものを考えることに通じるんじゃないかという気がしてきました。知らんけど(関西的クリシェですよ)
ところで前回はSNSを市場経済にたとえたんですが、市場経済というのは非常にセンチメントに影響をうけやすい場でもあります。実体のない思惑によって、価値が変わってしまう。かつてスティーブ・ジョブズがスピーチのあとに”one more thing”と言った時には株価が数パーセントあがり、その直前まで存在しなかった富が、その前後で何も変わっていないのに、数百億ドル分蜃気楼のようにいきなりこの世界に立ち現れたものです。逆もまた然りで、特に大きな不祥事が発覚すると、企業の実体的な価値自体は全く変わっていないはずなのに、大きく株価は売り込まれる。その売り込みが激しければ激しいほど、センチメントはより急激になって、不祥事の実質的な影響以上に企業の価値は損なわれます。
こういう時、ポジティブとネガティブ、どっちがより急激な反応によるのかは、その時の環境にも寄るんですが、傾向的には市場のセンチメントは「ネガティブ」の方向に反応しやすいです。人間やはり、マイナス面の恐怖の方により強く反応するからです。であれば、SNSが市場経済に似ているとするならば、SNSもやはりネガティブセンチメントに反応しがちなものです。最近ではこんな事件もありました。
SNSが殺伐としていて、炎上騒動やフェイク動画の方が拡散しやすいのは、それが「怒り」や「不安」といった、ネガティブなセンチメントを食う欲望の方がSNS上では優勢だからなんです。
先日、そのような傾向を感じる経験をしました。友人からFacebook上のある振る舞いに関して、相談というほどのことではないんですが、質問を受けたんですね。その友人がいうには、今までずっと自分の投稿に「いいね!」をつけてくれてた人が、最近全然してくれなくなったと。そして彼はいうのですが、「なんか嫌われるようなことしたかな?」と。ああー、と思いました。彼はSNS初心者だったんです。なので典型的な「SNS的不安」に罹患しているんだなと。
実際のところ、その友人の投稿に、そのひとから「いいね!」がつかなくなった理由は僕にはわからないんですが、例えば僕に関して言えば、ある時からインスタグラムもツイッターも、ほとんど「いいね」反応をしなくなりました。それは単純にSNSの情報が多すぎるからです。僕はあまりSNSに時間を使いたくない人間なので、その時間があれば映画見たり本読んだりしたい。なのである時、「自分が写真を投稿する前後30分以外はSNSをみない」という風にしたんですね。SNSは僕のようなフリーランスにとっては重要だけど、あれはあくまで仕事のツールなので、それに人生自体を取られるのは本末転倒だと思ったわけです。そういう判断でSNSの反応がなくなることもあります。SNSの反応が途切れるというのは、いろんな形があるはずなんです。
でもSNSでは、上にも書いた通り、基本的には「ネガティブ」なセンチメントが流通しやすい。そのため、「いいね!」を押さないという、いわば「好意の欠落」は、「敵意の存在」を想像させやすいんですね。空白の領域には不安や猜疑心、妬みや嫉み、怒りや憎悪が充満して行きやすいんです。「いいね!」が途切れることによって、「自分が嫌われたかもしれない」という想像は、まさにその相談してきた友人が、こうした「SNSのセンチメント」に対して無防備だったからだと思います。
というわけで、SNSというのはネガティブセンチメントが流通しやすいということを、その彼にも伝えて、一応は安心してくれたわけですが、問題の本質はつまり「我々はSNS上でどんな風に振る舞うのがいいのか」ということなんですよね。リアルワールドでは互いに無関心でいられるはずの他人の反応が、ネガティブなセンチメントとして襲いかかってくるこの場所において、僕らはどういう風にするべきなのか。
1つのやり方は、これは典型的な「SNS的振る舞い」なんですが、「いいね!」を押しまくるという方法。つまり「積極的な好意の発信」です。でもこれは、僕にとってはすごくしんどい行為の1つです。SNSに時間はできるだけ取られたくない。多分、多くの人にとってもそうじゃないかと僕は想像してます。それに、この手の「積極的な好意の発信」は、そこから漏れている人の「寂しさのセンチメント」を呼び込む可能性があります。「なぜわたしは”いいね!”されないんだろう」という。それがまた巨大なネガティブセンチメントを作る素地になるかもしれません。
では、この悪意と敵意みちたSNS空間において、我々が取るべき次善の策はあるのでしょうか。それは、「僕はあなたのことは嫌いではないですよ」という、ゆるやかな善意の表明みたいな部分になってくるんじゃないかと思ってます。もっと平たくいうと、「友だちの誕生日を会話の中で知ったら、あ、おめでとう」と軽やかにいうような振る舞い、あるいは「公共の場所で言わないことは、少なくともオープンのSNSでは言わない」というような、実にあっさりした結論にたどりつきます。
つまり、「敬意の伴った距離感」を出来るだけうまく構築するための、「消極的好意」を出していくこと。例えばそれは、毎回の「いいね!」ではなく、ある人が何かいいことで喜んでいたら、数十人にまぎれてこそっと「いいね」を押してみるような、そういう「好意」や「善意」のありかたです。もしかしたら気づいてくれないかもしれないけど、自分には「敵意がない」という態度を取り続けることによって、無用なネガティブセンチメントに巻き込まれる危険から、徐々に遠ざかることができるんじゃないか、そんな風に思ってます。
とはいえ、人生がそうであるように、時に嵐に巻き込まれるというのも、SNSの醍醐味なのかもしれませんが。それはまた別の話ですね。