人間は物語なしでは生きられない(あるいはインフルエンサーとはどの様な「影響力」を行使するのか)
最初に概要を二段落でいいます。2018年現在、19世紀末に一度は死を宣告されたはずの「物語」が、再び大きな意味を持つ時代に入りつつあります。この場合の「物語」は「起承転結」を持ったいわゆるプロットとは少し違います。勿論それも含むのですが、この文章で言及する「物語」とは、「言語が多層に流通する空間」のことを指していると考えてください。「物語空間」とでも言うべきものです。
そう、大事なこととは、世界は基本的に「物語」の流通で動いているということなんです。かつて物語とは大きな宗教や一握りの権力者、巨大なメディアあるいは選ばれた大文豪のような人たちだけが駆動できるシステムでしたが、SNSの登場によって歴史上初めて「物語」を駆動するシステムが、小さな個人である我々のところまで降りてきました。SNSとは、一言で言えば、人々の「物語」を可視化し、つなげ、流通するシステムのことです。そしてインフルエンサーと呼ばれる人々は、この「物語を流通するシステム」としてのSNSを動かす力を持った人々ということなんです。つまり彼らの「インフルエンス(影響力)」とは、多層のレイヤーや参加者を含んだ「物語空間」を、自らを結節点としてつなげ、回し、命をもたせることができる力のことを指します。だから、時に巨大な利益を生み出すことができる。「物語空間」の中には、経済のレイヤーも含まれているからです。
というわけで、ここまでが大事な内容を2段落だけで書いたまとめです。これ以後は、個別に区分けした議論を展開しますが、斜め読みで十分です。ファクトもエビデンスもない、過去の推察と未来の展望ですから。
1. かつて一度、「物語」は失われた
ニーチェという哲学者が19世紀の末、「神は死んだ」と言いました。その真意は門外漢の僕にはわかりませんが、一般的にはキリスト教という西洋を約2000年近く支配していた価値観が、産業革命を伴う近代化とともに求心力を失ったということを意味しているといった感じで説明されます。
早い話が、車がびゅんびゅん走って、高層ビルが立ち並び、他国にいてもSIMフリーの携帯ですぐにインスタ映えポイントの写真をSNSにアップできる世界が成立しちゃうと、神様信じている余地がほとんどなくなっちゃうわけです。また、第一次第二次世界大戦といった、目を覆うような悲惨な戦争が各地で起こったことも、「神の喪失」に拍車をかけました。こうした事態をその後哲学者たちは「大きな物語の喪失」と言い換えました。つまり、みんなが信じていた一番大きな宗教という「物語空間」が消失して、共有できる価値観の基盤がなくなっちゃったというわけです。
その結果、例えば「生きる目的」とか「この世界の真理」といった、人類の究極の価値観が軒並み崩壊したと。
2.人間は「物語」なしには生きられない
ところが人間は「物語空間」がないと生きていけない性質を持っています。飯食って排泄して寝てを繰り返して死ぬだけでは生きられない。言葉を獲得した瞬間、人は「ものがたる」という行為を避けては通れなくなったわけです。言語自体が実際には巨大な比喩体系なので、我々は言葉を発すると同時に、何らかの物語を語っているといっても過言ではないです。
19世紀末までは、個々の語る「小さな物語」は、最終的に各共同体の一番巨大な物語空間である「宗教」に回収される傾向がありました。日本にはその様な巨大な物語空間がない代わりに、例えば「世間」とか「ムラ」とか「武士道」といった、宗教よりは小規模な世界観が、いくつか緩やかに日本の物語空間の外枠を維持する機能を果たしていたのだろうと思います。
3.たくさんの小さい物語の誕生
19世紀末頃に「大きな物語の最初の崩壊」を経験したわけですが、その後科学技術の劇的な発展によって、一度人類は「比較的幸福な時代」を20世紀の後半頃に迎えたように見えます。もちろん戦争は各地で続いてましたが、いずれは科学技術がそれらを全て解決するんじゃないか、というような、淡い楽観。「宗教」という大きな物語空間を失った我々人類は、その代理として「科学」という物語空間を手に入れたとも言えます。僕らは常識として万有引力を知ってるし、なんとなく相対性理論とか量子力学とか、ぼんやり正しいと思ってるわけです。そうでないと、高い高い高層ビルなんて登れないですもんね。みんな科学を信じている。かつて神の怒りを信じたように。
ただこれは、一見「物語」には見えないものなので、我々は「近代人」としての意識を「科学」という物語の上に築きながらも、自分サイズの個々の小さい物語を作り出すことになります。かつての宗教程は巨大な適用範囲を持たない、各ジャンルに固有の約束事をまとめた価値観。例えば映画だったり文学だったり、政治だったり経済だったり、アニメだったりゲームだったり、山登りだったりスポーツだったり。個々のジャンルは、ある程度以上の経済規模を獲得するに従って、それに所属する人々の母数も徐々に大きくなっていきます。そしてその集団内に流通する基本ルールが徐々に決められ、そのルールに則って物語が作られ、そこに所属している人はそれを学び、そのルールに回収される物語を再度語り出し、その価値観を強化するわけです。
でも、それぞれの物語のルールは、その集団内の固有のものなので、一端物語の外側に出るとそのルールや語法はあまり通じなくなります。こうやって人々は、分断された比較的小さな集団内=「小さい物語」を抱えて生きるようになりました。でも、各「小さい物語」たちは、世界の人口が増えて経済的な規模が大きくなるにつれて、固有の物語が含む経済規模もそこそこ大きくなります。その結果、乱立する「小さい物語」を、かつての宗教のように統合する必要などは、もうどこにもなくなったわけです。というよりも、そんなことはもう不可能でしょう。みんなもう、心の底では「神」や「真理」なんて信じてないのです。我々近代人は、それと意識しないまま、基本的にはニヒリズムを生きています。19世紀末にニーチェが予言したように。
4.SNSの登場
ところが、歴史は面白い展開を準備していました。というより、これは多分、人類全体の欲望の可視化だったんでしょう。「再びつながりたい」という。20世紀末にインターネットが登場し、さらに21世紀頭にSNSが確立したとき、これまでお互いに出会うことの無かった「小さい物語」たちが、誰もが見ることのできる表の世界、インターネットの公共空間で真正面から突然出会うことになります。まさに「未知との遭遇」ですね。それまで誰も知らなかった、各集団内の非常にディープな「物語」が全部表にさらされてしまう。その結果、「物語の衝突」が起こるわけです。これまで、中学校を卒業したら見ることもなかったであろう、例えばちょっと悪い子どもたちの社会的に若干逸脱したような行為(コンビニでアイスのケースに入るような)が、良識ある「大人」たちの目にさらされて、批判の嵐が起こったり。あるいは、ディープなアニメファンたちの行動が、リアルが大変に充実しているパーティーのピーポーの皆さんに嘲笑されたり。本来ならば出会うはずのなかった「物語空間」が、インターネット上で平置きされてさらされるようになった。それもこれも、SNSという空間の「強制的につなげてしまう性質」故にです。
5.インフルエンサーの登場
そんな中、本来、相互に折り合いの悪い複数の「物語空間」を横断できるような存在が現れます。インフルエンサーですね。SNSから出てきたインフルエンサーは、そもそもからしてごちゃまぜ空間だったSNSで多様なフォロワーを獲得してきた存在なので、その行動は、多様な物語空間を横断できる性質を持っています。例えばあるインフルエンサーは、「お笑い」メインで話す人だったとします。そのタイムラインには、でも時たま「グルメ」の話なんが入れたりする人だったしましょう。そうすると、本来混じり合うはずもなかった遠い2つの物語空間の価値観は、一人のインフルエンサーの行動や言動を結節点にして、混じり合う可能性が出てくる。その混じり合った新たな空間は、既存の経済が「価値」を示していない新たな空間なのです。こうして、インフルエンサーたちは「多様に広がって、相互に混じり合わなかった空間」を自らを結節点として繋げることで、「新たな価値」「新たな物語空間」があることを、徐々に世界に対して提示しはじめました。これがおそらく2015年あたりから始まったことでしょう。
6.「物語」が重要なのだ
そう、つまり。この話の結論は、「だからインフルエンサーが重要」ではないんです。彼らの存在もまた、現象の一つに過ぎません。これから大事なのは、この「小さい物語」が乱立し、並列で置かれている状況を認識して、個別の「小さな物語」を横断しつつ、それらをつなげた新たな「物語空間」を作り出す行動や力が求められているということなんです。一つ一つの「小さな物語」は飽和しつつありますが、その組み合わせはほぼ無限大なのですから。
最初に書きましたが、人間は「物語」なしには生きられない性質を持っています。それは起承転結のある、いわゆる「プロット」ではなくて、価値観の基盤を形成する言語空間のようなものです。そしてその空間を強く意識した、いわば「物語2.0」的なものを駆動させることができる個人や集団が、21世紀の最初の25年くらいを動かしていくんだろうなと。
7.この続きの話
で、最後に軽くこれ以後の展開なんですが、2019年以後はこの「物語」というキーワードを展開していろいろ考えていこうと思っています。そして実際、今一つプロジェクトが動いております。そこでは「写真」を「物語空間」の目線で分析するような、そういう文章が載る予定です。写真世界を写真そのものから開き、拓くための試みの一つです。うまく行ったらいいんだけど・・・