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SNSはなぜ「疲れる」のか

気づけば秋風吹く10月。8月ころ「今年の夏はたくさん文章書くぞー!」と意気込んだものの、仕事に追われ、花火に追われ、期末テストと採点に追われ、気がつけば新学期再開で再び仕事に追われ。フリーランス兼大学教員というのは、よほど上手く回さない限りやっぱりどこか無理があるんだなと実感している今日このごろです。

空いている時間も無いことはなかったのだけど、その空き時間はだいたいリオレウスを延々狩ったり、メタスラの剣を手に入れるために歩き回ったり、深夜枠でワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを見たりして過ごしてました。自分から発信しようにも、内側がすっからかん過ぎて、その空虚感を埋めるために引きこもって何かを貪り続けていました。

でも多分、それは自分への言い訳です。もっと本質的な理由は多分疲れてました。何に。多分、SNSに。あるいはSNSという環境が我々に強いる振る舞いに対して。それを今日は書いておこうかなと。あまり長くならないように。

1.SNSとはつまり経済です

「SNS疲れ」というのはmixiが流行ったあたりですでに言われていたことですが、今ではSNSはほとんど日常と等価に近くなってしまったことは、以前少し違うアプローチで書きました。

僕らの世界には「オフライン」がなくなりつつある。だから、SNSからはなかなか逃げられないわけです。オンラインの一番卑近な形はSNSだからです。いや、SNSやめたらええやん、って思うかもしれませんが、なかなかそうも行かないのが現状です。なぜなら、僕のような零細フリーランスが生き残るためには、個人としての存在を、ある程度世界に対して可視化していく必要があるからです。というところまで書いて、ふと思ったんですね。

「ああ、SNSってのは、つまりは人間版の市場経済なんだなあ」

と。僕らは多分、SNSの中で「貨幣」として振る舞わなければならない。しかも一端参加しちゃうと、逃げたくても逃げることが出来ない。多分それがすごくしんどい理由なんです。

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2.人間版市場経済の完成としてのSNS

「人間版の市場経済ってなんぞや」と思うかもしれませんが、ものすごく端折っていうと、「市場経済の原理」そのものが、「SNSの原理」と極めて親和性が高いということです。「市場経済の原理」というのは、つまりは流通です。富が富として価値を持つためには、それが流れなければならない。というよりも、もはや「流れること自体が目的」なのが市場経済です。

富はある一箇所に蓄積されて動かなくなると、途端に価値を失います。不景気の時にお金が回らなくなって、さらにデフレになっていくというのは、あれはお金持ちの人や企業や国家がリスクを嫌って現金を自分のところで止めてしまって、流通が滞って、さらに景気が悪くなるというスパイラルにハマるからです。人間の身体も似たような構造をしていて、血は大事ですが、あれも循環していないと意味がない。血が循環をやめたとき人間は死にます。経済にとっての「血」にあたるものが富、つまりは現在は「貨幣」です。貨幣がcurrencyという英語が宛てられているのは、currencyとはつまりcurrentであり、意味はもちろん「流れるもの」から来ているというわけです。英語はこの辺の表現は本当にうまいですね。

そしてSNSというのは、この「流れること自体が目的」になっている市場経済の形態とすごく似ています。SNSにおいては、情報は「拡散」することで価値を持ちます。「価値のあるものがバズる」ではないんですね。グレシャムが「悪貨は良貨を駆逐する」と言いましたが、そもそも市場経済下においては、全てが「悪貨」でもあり「良貨」でもあります。貨幣自体には本質的には価値はないから、流通してしまえばどっちでもいいわけです。それはSNSでいわゆる「バズる情報」が、素敵な写真であっても、流通目的の炎上マーケティングであっても、「人の目を引く情報」として流通する以上は等価であると言うのと似ています。本質は関係ない。流通が問題です

「流れることが自体が価値を生む」という点において、SNSは市場経済と極めて似ているんです。そしてこのとき、市場で流れる貨幣と同じ役割を、SNSで与えられているのが、「我々が発信する情報」を含めた「我々自身」であるということです。つまり我々一人ひとり、価値を流通させる貨幣の役割をSNS上で強制的に果たさせられているということです。我々の参加のそもそもの意図など関係なく。

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3.だから疲れる

こういうSNSというシステムの中に、血も涙もあり感情もある我々人間が、単なる「流通物」としての振る舞いを強制されるから、だからこそSNSは疲れるんです。

SNSという場において、僕らは「貨幣」になるんです。それ自体なんの価値もないもので、ただ「current」するだけの存在として、代替可能な「悪貨」のように振る舞うことを強制される。時々立ち止まって考えたいけど、一度周り始めた循環を止めることはもはや誰にも出来ない。

「じゃあ、SNSやめたらいいじゃん?」

っていうのは、それは今度は、今の世界で個人で価値を持とうとするときには自殺行為に近い。SNSというのは、市場経済へのアクセスを個人単位で可能にするツールとして現在機能しています。これまでは企業に属したサラリーマンや、ある程度以上の社会的身分の高い人しか回し得なかった「価値の循環」に、個人として参加しうる場所がSNSなんです。その象徴であるインフルエンサーが「インフルエンス」を持てるのは、彼らが極めてよく「流通」するからであって、彼ら自身になんらかの実質的価値があるかどうかは実際には問題ではないです。だからSNSをやめるということは、流通の停止であり、それはフリーランスのような個人で戦うことを選んだ人間としては、価値を生み出す手段を絶たれることを意味します。

それはつまり、「個人としての人格の保護を求める」か、「個人としての人格を放棄してただ流通するか」の、解くことの出来ない落とし穴に嵌まらざるを得ないということになります。

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4.悪夢の中で

SNSは使えば使うほどしんどいけど、やめたらそれはフリーランスとしては死に近づく、というこの二律背反の中で、何らかの希望はあるかというと、基本無いと思ってます。というのは、人類の歴史というものが、遺伝子と文字という「行動の履歴」を後世に残すための記録ツールを通じた、人類全体で行っているシステムの最適化作業だとするならば、「全体」に対して「個」がアクセスできる道を見つけた21世紀以降、もはや「王」だけが政治をしたり、「大企業」だけが経済を動かす時代は、二度と戻ってこないと思うんですね。だって効率が悪いですから。僕らは否応なく、SNSが拓いてしまった「個人で世界を相手にする」というゲームに参画せざるを得ない。

ただ、そのゲームの場に自分の方を最適化しすぎると、行き着くところは「貨幣としての自分」「記号としての自分」という、おそらくメンタルヘルス的に最悪の結果をもたらすであろう、自己の人格の否定です。

最善の道は無いので、僕らはこのSNSや、あるいは今後さらに出てくるであろう「個人を流通するツール」を上手く飼いならす術を今から体得しなくてはいけない。多分このnoteという場も、その一つなんです。SNSという「個性」を無化して循環だけを至上命題とする場から、ほんの少し逃げ出して息を付くための場所。

でもまだまだ、最適な「飼いならし方」は見えていないのが現状なんですよね。でも見えてないからといって絶望していると、いずれ動けなくなります。村上春樹が80年代の末にすでに書いていた一節を引用して終りにしましょう。僕らはいつだって、踊り続ける以外の道がないんですよね。

音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』


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別所隆弘
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