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冬の心(その4)——ラショーム先生

 ラショーム先生が音楽院を退官し、パリのアパルトマンを引き払い、ヴェルサイユに近いサン=マルタンの森のなかに移り住んでから、もう七、八年になるだろうか。〔……〕
 私は森の木々に囲まれたこの古い家を訪れるとほっとする。故郷に帰ったような気がする。アルデンヌの父や母はすでに亡くなっているから、もう帰郷することもなくなった。パリでのひとり暮らしには慣れているものの、年に何度か全身が乾ききったような感覚をおぼえる。そういうとき、私は車を飛ばし、この森にやってくる。鬱蒼とした緑、しっとり湿った空気の肌あい、樹木の、草の、土の匂い、吹きわたる風、すべてが私をなごませる。そして、マダム・アメの手料理。彼女の煮込み料理は絶品だ。林檎や苺のタルトもすばらしい。

 場面は転換し、パリ中心部の少し光のくすんだアトリエや活気のあるレストランの内部から、鬱蒼とした森に包まれたラショーム先生の自宅へと移る。この場所を「ヴェルサイユに近いサン=マルタンの森」に設定した根拠は何かと問われると、もう明快には答えられない。考えられることはまず、ヴェルサイユという地名がシテ島と同じように、たとえフランスやパリに行ったことのない日本人にも馴染みのある地名だということがあるだろう。

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