見出し画像

日蓮、ユング、私の臨死体験を通じた生命の哲学と表現

はじめに

人類の精神的探求において、文化や時代を超えて共通するテーマが数多く存在します。日蓮仏法とカール・ユングの心理学は、一見異なる哲学的背景を持ちながら、集合的無意識、曼荼羅、そして深層心理に関する理解において類似点を示しています。私の写真表現活動は、臨死体験を契機に、これらの思想と深く共鳴する形で発展してきました。本文では、日蓮とユングの思想と、私自身の臨死体験に基づく創作活動を照らし合わせ、生命の真実に迫ります。

集合的無意識と九識論の共通点

ユングの集合的無意識は、個々の経験を超えた普遍的な象徴体系を含む無意識の層を指し、人間が共有する古代の知識や直感を象徴する「元型」がその中心にあります。この無意識の構造は、日蓮仏法の九識論における「阿摩羅識」と共鳴します。九識論は、表層的な五識(感覚器官の働き)を超え、心の奥底に存在する生命そのものの清らかさである「阿摩羅識」を提示します。この阿摩羅識は、生命の根源的な悟りの領域であり、ユングが指摘する普遍的な無意識の元型に通じるものです。

私自身の臨死体験は、このような無意識の深層構造を直感的に感じた瞬間でした。生命が死の境界を超えたとき、私は意識の奥底にある「連続性」と「光」を体験しました。それは、ユングが元型を通じて語る普遍的な知識の世界や、日蓮が説く阿摩羅識の清浄さに触れる瞬間だったのです。この経験は私の創作活動に大きな影響を与え、私の写真作品は生命の深層を表現するものとなりました。

ユングの曼荼羅と日蓮の曼荼羅本尊

ユングは、曼荼羅を無意識との対話の象徴として用い、個々の精神の中心へと至るプロセスを視覚的に表現しました。曼荼羅は、精神的な統合やバランスを回復するための手段として理解され、ユングの心理療法において重要な役割を果たしました。これに対して、日蓮の曼荼羅本尊は、法華経の中心的教義である「南無妙法蓮華経」を記し、宇宙の真理と一体化するための象徴的道具となっています。

私の臨死体験においても、曼荼羅的な視覚イメージが現れました。それは、光が無数の形をとりながら流れ、生命が宇宙の秩序と調和していることを示すものでした。この体験が私の創作の原点であり、写真表現において曼荼羅的な構造を意識するようになりました。ユングや日蓮と同様に、私もまた、生命の深層にある真理を曼荼羅を通じて表現しているのです。

日蓮仏法とユング心理学の救済論

日蓮仏法は、唱題を通じて自身の仏性を引き出し、苦しみを乗り越える力を強調します。個人の内なる真理に気づき、仏性との一体化を目指すプロセスは、ユングの自己実現のプロセスと共通しています。ユング心理学では、無意識の元型に向き合い、自己の統合を果たすことで精神的な救済を得ます。両者は、自己を超えた存在との結びつきと、内面からの救済を探求する点で共鳴しています。

私自身も、臨死体験を通じて自己の限界を超えた存在との繋がりを感じ、その後の創作活動において救済を求めてきました。写真を撮ることで、私は自分の内なる無限の可能性や無意識の元型に触れ、自己の内面と外界との調和を探し続けています。日蓮とユングの思想は、私の創作においても深く根ざしており、それが私の表現に普遍的な力を与えています。

結論

日蓮とユングは、時代や文化の違いを超えて、生命の深層構造に関する類似した思想に至りました。ユングの集合的無意識と日蓮の九識論、そして曼荼羅という象徴は、個人を超えた存在との繋がりや精神的成長のプロセスを示すものです。私の臨死体験もまた、この普遍的な真理に触れる体験であり、その後の写真表現において、生命の深層を探求するプロセスが反映されています。

日蓮、ユング、そして私自身の創作活動は、個々の意識を超えた真理との繋がりを追求する点で共鳴しており、それが人類共通の精神的探求の一部として位置づけられます。私の写真作品を通じて、生命の本質と人間の存在の根源的な問いを探求し続けることが、私の使命であると感じています。

写真展情報:

日程: 2024年9月26日〜10月29日
会場: Liike(渋谷区恵比寿西1-35-5-2F)
営業時間: 10:00〜19:00
作家在廊日: 10月1日, 14日, 15日, 22日, 29日

いいなと思ったら応援しよう!