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【翻訳家との対談】バイリンガルな腦内と媒体を越境する”ことば”

まえがき

下北沢にあるBar Giraffe。僕が作った稀人通信の小冊子を手渡したところから会話が始まった。会話の相手は、翻訳家で脚本家のMさん。話が興味深かったので許可をとって会話を録音させてもらった。

ちなみにその日が初対面。この記事は録音内容を元に文字起こししたものである。あらかじめ断っておくと、この対談では、敬語とタメ口が入り混じっており、自分に関しては一人称すら揺らいでいる。しかし、あえてそのまま掲載することにした。初対面ならではのチグハグな会話がここに成立している。これは今回の対談内容とも大いに関連の深いことである。


バイリンガルだからこそ書ける文体

M:私本業が翻訳家なんですけど、自分が帰国子女じゃなくて養殖なんですよ。日本で英語を体得した身なので。

泰斗:それ養殖って言うんだ。

M:養殖って言うらしいんですよ、インターナショナルスクールとかで学んだ人のこと。私も最近知ったんですけど。アーティフィシャル(人工的)に作った言語力なので、すごくチグハグなんです。

泰斗:へえ。はいはい。

M:向こうで暮らした経験がほとんどないから、「こういうシチュエーションの時にこういう言葉を使う」っていうデータベースがすごく薄くて。ただ学問的には勉強したから。基本的な日常会話の上にケーススタディみたいな実践的な言語運用があって、その上にアカデミック・イングリッシュっていうのがあるとしたら、その基本部分とアカデミックの部分は扱うんですけど、間が抜けてるんですよ。

泰斗:おもしろい!

M:だからこそ書ける文章があるなと思ってて。コードスイッチングってわかります?

泰斗:わかんないです。

M:多言語話者が話す時に…

泰斗:頭を切り替える?

M:そうそう。この思考はこの言語で展開するみたいなのがあるんですけど、それにすごい興味があって。コードスイッチングをしている自分っていうのをちゃんと記録して分析したいんですよ。本当はクリエイティブな意味で、バイリンガルに二言語を使い分けた作品を作りたいんですよね。それってもしかしたらこういうの(*1)なのかなって思って。

*1 稀人通信vol.1
稀人ラジオを擬ZINE化した小冊子。収録した内容を書き起こし、即興で生まれた会話を台本として再変換している。その中で、会話を英語に翻訳した後、翻訳した英語を海外ドラマの字幕翻訳のような文体で再々変換したページがある。

稀人通信
稀人通信vol.1, P.12-13

泰斗:そうですね。それこそ、僕がこのZINEで翻訳っていうのがやりたかったのも、元々アメリカのシットコムとか大好きで。でも、そこで使われてるジョークとかが日本語の字幕で伝わってないっていうのにめちゃくちゃもどかしさを感じてて。で、村上春樹が…

M:そうですよね。そう。

泰斗:言ってたじゃないですか。最初に小説を書いたときに、一回英語で書いてからそれを日本語に直して自分の文体を作ったみたいな。そういう発想もめっちゃ好きで。翻訳文体っていうものに惹かれる。

M:うんうん。

泰斗:、ラテンアメリカ文学とかたまに読むんですけど。コルタサルっていう作家の幻想小説が好きで… あと最近だと、韓国の小説も結構流行ってるじゃないですか。ああいうのも国ごとに全然違った文体があるから、慣れない翻訳だと読む側としても、若干のスイッチングなるものが必要になったりするよね。

M:そうですよね。おもしろいですよね。それでいうと一番フランス語の翻訳が読みづらいです。もともと演劇やってたけど、身体表現の話とか全然入ってこなくて…

泰斗:ああ。フランス語とかっていう話からは外れちゃいそうだけど、僕は大学でシュルレアリスムとか勉強してたから、アンドレ・ブルトンの原文がフランス語の『シュルレアリスム宣言』の日本語訳とかはすごく好きだった。シュルレアリスムだから、あれはまた別だけど。『ゆる言語学ラジオ』のやつ聞きました?

M:聞きました。思考の違いのやつですよね。

泰斗:そうそう。『論理的思考の文化的基盤』。

M:あれ聞いて結構腑に落ちました。そうなんですよねえ。

泰斗:論理的思考は文化的な基盤によって変わりうるっていう。文字通りの。

M:うん。

泰斗:それで、最終アウトプットは作品にしたいっていう感じなんだ。

M:作品にしたい。

泰斗:小説とかも書くの?

M:書かないです。書いたことなくて…。エッセイみたいなのは書けると思うんですけど。私は演劇に携わってきたんで、できたらどっちもの言語を使う脚本を書いて作品を作れたらなって思うんですけど

泰斗:うわー。濱口竜介の『ドライブマイカー』って観ました?そういう多言語な感じの脚本で思い出したんだけど。

M:観てないんです。でも村上春樹大好きなんですよ。

泰斗:観てほしい。多言語話者っていうのと、演劇っていうのが絡んでくるから。


翻訳文体の心地よさと書き言葉の復権

M:翻訳文体に感じる心地よさってなんなんですか?

泰斗:そもそも文っていうか、テキストっていうのかな。活字っていうものに偏愛があって。僕がこういうZINEとか、稀人ラジオのタイトルとかを書くときに、旧字体とか旧仮名っていうのを結構使うんですよ。

明治から大正にかけて文語から現代仮名遣いに移行するタイミングで、話し言葉と書き言葉が乖離してるからそれを言文一致させようっていう運動があったじゃないですか。僕が好きな翻訳家で劇作家の福田恆存とかは物凄く反対してたんだけど。

例えば、「蝶々」って読むものを「てふてふ」って書いたりするのって不便だよねってなって、それを統一した運動。その運動によって失われた価値があるっていうのを、古書を読み始めると強く感じて。「旧仮名遣いだと読めないなー」とかってなると、改革以前の思考で現代語訳されてないものにアクセスできないじゃん。体っていう漢字が、からだになってたり。

M:あれね。骨がついてるやつ。

泰斗:旧字とか旧仮名は現代人にとってはストレスだなと思ったりするけど、古い全集を買ってみたりすると、それが読めなきゃ始まらないみたいなとこあるから。旧字体とかをなんで使うかっていうのも、それを復活させたいなって思いがあって。それは翻訳文体にも通じる部分がある。

M:はいはい。

泰斗:つまり、話し言葉と書き言葉が持ってる作法って、別物として考えられるよっていうのが、改めて今言えると思ってて。昔は、言葉を不特定多数に向けて発言できる機会って唯識者にしか与えられてなかったんだけど。SNSとかが生まれて、もはや誰もが言葉を扱えるようになった今は、例えば演劇の中で出てくる言葉と、僕がバーで酔っ払いながら呟く言葉っていうのがオンライン上で等価のものとして並べられちゃうわけじゃん?だから、書き言葉の力が弱まってるんじゃないかと思ってて。

M:うーん。

泰斗:文字っていうもの自体が、元々刻み込むものだけど。文字が持ってるパワーの強さっていうのを復権したいなっていうのがある。

💡補足 翻訳文体に感じる心地よさとは?

ちょっと待て。「翻訳文体の心地よさ」の答えをちゃんと返せなかった。改めてここで言語化するのであれば、要するに本来は書き言葉と話し言葉には、お互いに交わらない別の種類の快楽があって、それは言行一致運動によって曖昧化されたが、翻訳文体には話し言葉にはない違和感が書き言葉としてそのまま残されていることが、貴重で心地よく感じるということなのかもしれない。キーワードは物珍しさなのだろうか?

ついでに言うと、それは今の過渡期の生成AIにしかない文体というところにも強く感じているから、僕はAIの文章も好きなんだろう。


M:文字ってなんだと思いますか?刻むっていうことですけど。私は、思考っていう雲のようなものがあって、文字はそれに実態を作るためのピン留めだと思うんですよ(*2)。このピンみたいなものを人は並べていて、その間には発話した人の雲みたいな、水蒸気みたいなものがあるんですけど、受け取る側はその点と点を繋げて線にして受け取るみたいな。そういうコミュニケーションが行われてるなっていう。

泰斗:はいはい。文字に関して?言葉っていうこと?

M:言葉もそうですね。ちょっと一緒くたにしちゃったけど。

泰斗:言葉に関していうとそれはめっちゃ感じて。例えば、今バーに立ってる人が即興でコメディを作るコメディアンだから例に挙げるけど、「即興でコントをします」っていう人に一つ言葉をお題として与えたりするだけで、場面が動き出したりする。言葉って暴力的に場を変換するパワーがある

M:うんうん。

泰斗:それこそ、この前配信したばかりのラジオで話してたのが… あ、その前に!『チ。』っていうアニメ観ました?観てないか?

M:観てないです。

泰斗:『チ。』は、要は地動説っていうのが生まれるまでの人間模様を描いた漫画なんですけど。その間に主人公が何人も入れ替わって、それぞれの人がその功績を書籍に残したりしながら、脈々と受け継がれていく。っていう感じのストーリーで描かれるんですけど。その中に出てくるヨレンタさんっていう女性の言葉が印象的で。

当時、女性が学術界で論文を発表することが許されていなかった中で、「どうしても宇宙に関して知りたい、調べたい」っていう知的好奇心が旺盛な研究者の女の子なんですけど、その子が文献を漁って自分が考えていることを論文を残すっていうのをやっちゃうわけ。それで文字が読めない別の登場人物に、「文字が読めるってどういうことなんですか?」ってことを聞かれるの。それに対してヨレンタさんが答えたのが、「これは信仰とかではないんですけど、文字は、まるで奇跡・・ですよ」って答えるのね。本当にその通りで。文字っていうのは時空を超えて概念を伝えられる媒体ってことなんだと思う。まあ、それはそうだよね。そりゃそうだよね。

『チ。-地球の運動について-』3巻 P.175

🪶コラム:言葉と余白

*2 文字は思考に実態を作るためのピン留めだと思う

以前、伊集院光とMr.Childrenの桜井和寿の対談で、まさに言葉の役割の話をしていた。伊集院と桜井さんが同じ話をしているのにも関わらず、その例えの出し方の美意識が全然違っておもしろかった。

桜井さん曰く、歌詞(言葉)は星を並べることしかできない。そこから線を繋いで星座を作り出すのがリスナーの存在だという。

伊集院曰く、〇〇みたいな不細工な人と言ってしまうと、イメージが〇〇に固定されて言葉以上の価値を持たない。ラジオでは、「松の木におじやをぶつけたような顔」というような余白を持たせた抽象度の高い言葉を使うことで、リスナーそれぞれが自分の知り合いの中からなんとなく肌の荒れた不細工な人を想起できるような話し方をするという。


文字との戯れの中でしか生まれないもの

M:あんまり文字単体っていう観点で考えたことなかった。

泰斗:文字の起源って振り返ると、さっきも言ったけど、「刻む・掘る」っていう行為なんだよね。今は、乗せるだけど。インクを乗せるみたいな。

M:あー、はいはい。

泰斗:刻むとか掘りつけるってことは、つまり転写されるんだよね。魚拓みたいな感じで、「図」があったら、文字盤の方は「地」で、反転して映るわけじゃないですか。それはもうある種、違う世界のものなんだろうなって思ってる。文字は現実を写した別の現実みたいな。

最近、近代批評を確立したって言われる小林秀雄の評論とか読むんですけど。彼が、自分の頭の中にあるものを文字にしようと思ってる時点で、それは良い書き手とは呼べないみたいな話をしてて。文字っていうものを「オブジェクト(=対象)」として扱って、それを連ねていく中で、自分が言いたかったことが見つかるっていうのが書くという行為なんだっていう。

M:うんうん。

泰斗:僕はしばらく書けないなあっていう時期があって。それこそ村上春樹じゃないけど。彼も『風の…

M:歌を…聴け』

泰斗:そうそうそう。『風の歌を聴け』の冒頭部分とかは、「完璧な文章なんて存在しない」ってことに気づいて、春樹自身が書き始められるようになったっていうことを書いてるわけだけど。僕の中でもこの2,3年くらいのジレンマは、「自分が言いたいことが固まってないから執筆できない」っていうことで。

M:んー。はいはいはい。

泰斗:でも、文章っていうのは文字との戯れの中でしか生まれないんだなって思った。言いたいことがあるから書くんじゃなくて、まず書くから言いたいことが見つかるっていうか。

M:わかります!それわかります。

泰斗:なんかすごいな。話がバチバチに通る。

M:私、脚本も書くんですけど。最近、違う脚本家のすごく抽象的な作品を翻訳するっていう経験があって。何年か前に書かれた脚本だったんですけど。翻訳するときって噛み砕かなきゃいけないから。原文の表面に出ているものが氷山の一角だとしたら、その氷山の麓まで知らないと翻訳できなくて、言葉を確実に選べないんですよね。そこの部分が知りたいから、何度も対話を重ねたんですよ。「ここってつまりこういうことですか?」っていうのを、本当だったら受け手としては聞きたくないことがあるんですけど。書き手にしてもそうで、具体化を嫌う脚本家は多い(*3)なって。

泰斗:そうですよね。

M:その中であった発見が、それこそさっき言ってた「文字の戯れの中で理論ができあがる」ってことで。文字以前に理論は存在しないっていうのをすごく感じて。特に演劇でいうと、脚本家の後に演出家がいて、さらに演者がいるじゃないですか。観客に届けられるまでの過程の中に。点と点を繋げて、意味みたいなものを脚本の外に見出すのって、演出家ないしは役者なんだなと思って。つまり、逆を取ると脚本家に…

泰斗:パワーはない?

M:パワーはないというか、テキスト以上の理論は存在しない。ってことに気がついたんですよね。

泰斗:なるほどねえ。

M:私はそれですごく気が楽になって。自分は翻訳もするし、演出もするから、台本を書くときにメイクセンスさせなきゃいけない。辻褄を合わせなきゃいけない。っていうことに捉われちゃうし、自分が言いたいことが一本線でなくてはいけないって思っちゃうんですけど、そうじゃなくても書き始める勇気。

M:むしろ点を置くっていうくらいの、自己評価に持っていくっていうか。

泰斗:そうですね。

🪶コラム:言語化でこぼれ落ちるものがあるとしても…

*3 具体化を嫌う脚本家は多い。

この部分は以前書いた文章で、自分がギャラリストとして展示企画を作る上で、アーティストにインタビューをした時に感じたことに共通する部分がある。その文章の一部を引用する。

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 展示のリリースに向けて、エリックに作品についてのインタビューをすることになった。アーティストの中には言語化を嫌う人も多い。作品だけで勝負したいというのが、多くのアーティストの本音。タイトルも「Untitled(無題)」にこだわる人もいる。その気持ちはよく理解できる。そっくり言葉に変換できうるものなら、そもそも作品にする必要なんてないわけだ。それでも、私としてはできる限り聞き出したいという意気込みでいた。顧客とアーティストの間に立つ者として、実務上必要だからと言うよりは、個人的にそうすると決めたことだ。

 日記を書く中で得た一つの視座がある。それは、私に私の日記があるように、「人には人の日記がある」ということ。もちろん、誰もが私みたく取り憑かれたように日記を書いているわけではないだろうが、どんな人間も関係性の中で生きている。そこには、書かれていないだけで膨大な情報が書き込まれていて、適切な問いかけをすることで、その一部を引き出して読むことができる。それは、私が相手に訊き、そして話を聴く、という二つの能動的なアクションをとることによって、はじめて達成する可能性のあるものだ。他者は閉じられた本のようなもので、それを手に取り、ページをめくって中身を読むかどうかは自分に委ねられている。

 アーティスト名、タイトル、制作年、支持体、技法、サイズ、価格といったメタ情報の奥のレイヤーにあるもの。ステイトメントの行間にあるもの。作品の中に滲み出ているもの。それらを言語化することは、少なくとも私が作品をより深く理解する上で、十分条件でなくても必要条件の一つだと思っている。だから、エリックの展示のリリースを書くにあたって、私はできる限り彼の口から言葉を引き出していくことにした。私はアーティストの話を聞くのが好きだし、幸運なことに仕事にかこつけてそうすることが許されている。エリックとの言葉の交換を通じて、初めて作品を見た時に感じたあの無防備な作品の正体を掴めたらいいなと思っていた。


言語化とズレ。対象を言語を通して理解すること

泰斗:最近、ラジオでちょうど話したことで、誤謬とか勘違いっていうのに関心があって。この前話したのが、僕が好きだったYouTubeの動画があって、それをラジオで話した時にかなり盛り上がったんだけど、後になってその動画を見返したら、自分が話している内容と結構違ってて。要は、思ってたより全然おもしろくなくて。

M:ほおー。

泰斗:自分がおもしろいと思った部分だけ話したからおもしろかったんだけど、動画と語りの間にズレがあったの。ラジオで話した相方にも「その動画めっちゃおもしろいんだろうなって思って見たんだけど、話で聞いた方がおもしろかった」って言われて。

M:へえ。

泰斗:さっき出てきた小林秀雄は、モーツァルトを語ったりとか、ゴッホを語ったりとかするんだけど。ゴッホは元から好きだし、大学でもある程度は勉強したからもちろんわかっているつもりなんですけど、その小林の文章を読んだ時にめっちゃ感動して。

M:はいはいはい。

泰斗:その時に、僕はゴッホに感動したんじゃなくて、ゴッホに感動した小林秀雄の文章に感動したんだって。

M:ワーズワースの詩でありますよね。そういうの。

泰斗:へえー。そうなの?ちなみに僕めっちゃ歩く人なんで、ワーズワースに親近感はある。それ知らないんだけど。

M:ほんとですか。そのものはわからないけど、それによって動いた心っていうのは永遠である。みたいな。

泰斗:はいはいはい。

M:そういう考えですよね。

泰斗:そういう考え。だから、たとえば、自分が見ている相手が船だとしたら、その相手から受け取るものっていうのは、船が通った後の波の揺らぎでしか伝わらないと思ってて。

M:はいはい、そうですよね。

泰斗:それで、相手を船だと思って理解すると間違うんだけど。

M:んーー。わかる。

泰斗:相手が作る波を相手のようなものだと思って認識すると、相手とのズレは当たり前のものとして受け入れられる。

M:すごいわかります。


媒体の越境アダプテーションという翻訳行為

泰斗:最近、本当にやろうって思ってるのが、媒体の越境っていうことで。

M:はいはいはい。

泰斗:さっきも言ったけど、アメリカのシットコムが大好きで、『How I Met Your Mother』っていう作品が好きなんですけど。

M:懐かしい。

泰斗:かぁー、知ってるの嬉しいぃ。

M:ははは。

泰斗:それを脚本に起こして、Aストーリー・Bストーリーとかを整理してから小説に書き起こしてみたときに、ドラマのカット割りとか回想シーンの導入とかっていうのをどこまでリアリティを持って小説に落とし込めるかっていうのを…

M:聞いてください!私…!

泰斗:できるんですか!?

M:違うんです!できないんです!私、Netflixで観たドラマの原作を後から読むのが大好きで。

泰斗:わかるっ!!!

M:すごい好きで。

泰斗:僕も基本ノベライズってつまんないけど、あえて買ってめっちゃ読んじゃう。

M:わかります!すごいわかります。すごい好きで。私大学でアダプテーション(*4)の勉強をしてたんですよ。

泰斗:うわーっ。それ!!

*4 アダプテーション
作品が他の表現メディアの形に置き換えられること。「原作」と同じ表現メディアにおいて形を変えて再現される場合も含む。

M:だから、翻案によってどうやって原作に刺激を与えられるのかっていうのに興味があって。

泰斗:はいはい。

M:主に源氏物語の研究してたんですけど。源氏物語って江戸時代に漫画みたいに、大衆文化の中で卑猥なものとしてすごい流行したことがあって。それが元々のコンテンツにどういう影響を与えたのかって考えると、そもそも卑猥な話なんですよ、源氏物語って。

泰斗:うんうん。

M:その部分がハイライトされたことによって、元々の原作に戻って、読んでみる人々も増えていったみたいな。そんな感じの流れを考察したんですけど。まあそれは一旦置いといて。メディアをクロスすることによって、本質が明らかになる

泰斗:そうねえ。

M:だから私翻訳やってると思うんですよ。

泰斗:昨日ちょうどおもしろかったのが、このバーにたまに来る人がいて。その彼に、自己紹介も兼ねて、このバーの人たち達とこうして出会ったんですっていう話をしたんですよ。でも、その彼は僕が話した話の一部は、それぞれ別の人間からの語り口で既に聞いてるから、馴染みのある内容が、僕の話によって全く別の文脈で交錯するのがおもしろいって言ってて。同じストーリーなのに全然違く感じるっていう。どんどん立体的に見えてきたらしい。

M:聖書みたいなね。

泰斗:そうそう。岡田斗司夫っていうYouTubeの評論家も言ってたのが。批評は聖書なんだと。

M:なんて方ですか。

泰斗:岡田斗司夫。ジブリの解説とかしてる人で。宮崎駿が作ったチェゲアスの『On Your Mark』っていう短編映画について語る回とか神回なの。もう、そこに描かれてないんだけど、描かれてたかのような気持ちになるような批評をするわけ。

M:ええー。

泰斗:批評っていうのは、本当に誤謬を含むっていうか。語り手の力量によって、作家すら理解できてないような概念をも炙り出してしまう。

ラジオで相方も言ってたんだけど、『バガボンド』とかも、史実では少ししか語られなかったことを、拡大して長尺で描いたりとかするんだって。宮本武蔵がいて、その伝記があって、それをさらに漫画化する過程で歴史的な解釈を加えてっていう。そういうプロセスを経て、史実にはなかった部分まで浮き彫りにした厚みのあるストーリーを作るっていうね。そこには、必ず誤謬が生まれるけど、それこそが創作だって気がするんだよね。

M:うんうん。

泰斗:司馬遼太郎がやりたかったことも、日本が近代化を遂げた後に、どうやったら日本の長い長い歴史的な文脈を現代と接続することができるかっていうことで。彼は、日本の歴史を批評眼を持って、語り直してたんだと思う。

M:はいはい。確かに。

泰斗:最近、哲学書で東浩紀が『訂正可能性の哲学』って本出してたけど。あれはまさに、日本が敗戦から、戦後民主主義に急に切り替わって、「自分たちのルーツってなんだろう。アニメだろうか、鉄鉱業だろうか」とかって問い直す中で、日本にはもっと古事記から続く長い歴史があったんじゃないのを考え直す実践なんだろうなって思う。戦後の断絶っていうのを、語り直すっていうか。歴史を改竄するのではなく、歴史を編み直す試みとしての訂正可能性。

M:なるほどね。


翻訳はローカライズすべきか否か

ローカライズ
文章やその他のコンテンツを、ターゲット市場の特定の文化や習慣、価値観に合わせて最適化させること

M:ちなみに二言語話者ですか?

泰斗:日本語と英語と宮崎弁。

M:宮崎弁ね。

泰斗:時間ないから流していいけど、まじなのよこれ。宮崎弁は別言語なの。英語は全然ネイティブとは程遠いけど。

M:英語に関していうとどうなんですか。英語がわかるから、翻訳がおもしろいってのもあるんですか?私は完全にそれで見ちゃってるんですけど。「あっ、ここから来てるんだ」っていう、原文が透けて見えるみたいな。

泰斗:あーそれはそうかも。そうそうそう。僕もちょうど今、日本語に翻訳されてない本を趣味で勝手に翻訳してるんですよ。その時に、英語だったらこう書かれてるんだろうなっていうのがわかんないと、僕の翻訳だけ読む人はわかんないよなって気持ちにもなる。

M:それはいいことなんですか?悪いこと?

泰斗:わかんない!悪いこと寄りな気もする。どうなんだろう。でも!・・・そうね。

M:それでいうと、私通訳もしてるんですけど、通訳って完璧にはできないじゃないですか。しかも原文を発話した人が隣にいるから、その存在をないものとしては扱えないし。しかも多くの日本人は英語が少しはわかるから、どうすればいいのかなって思うんですよ。「今の部分のニュアンスをすべて、日本語にしたらどうだろう」って変換すべきなのか…

泰斗:あーやっぱごめん。やっぱ違うかも。

M:違います?

泰斗:それこそドラマとか観てて思うのは、「これってこういう内輪のミームみたいなのがあるんだろうな」っていう笑いの受け取り方もあるんじゃないかっていう。

M:ああ。はいはいはい。それでいうと、笑いはローカライズしない方がおもしろいって思う派です?

泰斗:いや、ローカライズ…しない…方がおもしろい。うん。そうだね。ローカライズしないものであっても受け取れる(*5)っていうか。めっちゃ適当な例出すけど、「まるでジャスティン・ビーバーだな」っていうセリフがあっちのドラマであって、笑いが起こったとするじゃないですか。

M:はいはいはい。

泰斗:そのニュアンスって多分あっちの文化圏の人が持ってるものの方が濃くて、僕は薄いんですよ。けど、ジャスティン・ビーバーって「この人をいじるのっておもしろいわ」っていう立ち位置っていうか、そういうポジションの人なんだなっていうのがわかって、ちゃんと理解できる。

M:うんうん。

泰斗:それはメッセージっていうよりは、もうちょとメタメッセージなんだけど

M:そうですね。

泰斗:そのメタメッセージを受け取ることは可能だと思ってて。人と話してるとさ、いっぱいいろんなこと話したけど、受け取り手がその内容について言及するんじゃなくて、「なんかいっぱい話す人だね」っていう感想を言ったとするじゃん?

M:うんうんうん。

泰斗:それって完全にメタメッセージを受け取っちゃってるんだけど…。だけど!それでも、その熱量なりなんなりは伝わると思う。

M:そうですね、そうですね。すごいわかります。

泰斗:その伝わった熱量こそが、「よくわかんなかったけど、これもっと知りたい!」っていう熱量に繋がるんだと思う。

M:わかります!私も職業柄それを許容しなきゃいけないなって思っていて。メタメッセージしか伝わらないことって、やっぱり言葉を繊細に受け取ってる身としては…

泰斗:もどかしいよね。

M:もどかしいんですよ。そう。なんですけど、そういう受け取り方をする人もいるし、そういう情報の取りに行き方をしている人もいるんだから、許容しないとなっていう。

🪶コラム:言葉遊びとローカライズの難しさ

*5 ローカライズしないものであっても受け取れる

 ローカライズしなくてもメタメッセージが伝われば分かると書いた。しかし、その言語特有の文法構造を活かした言葉遊びについてはどうだろうか。
 下の『How I Met Your Mother』のワンシーンでは、「どのクラブに行くか?」というテーマでグループの中で議論が巻き起こる。ややこしいことに、ここに登場するクラブの名称は、通常の会話に必要な形容詞や動詞になっている

「Was」(あった)
「Wrong」(間違い)
「Shut down」(閉店)
「Oh no!」(そんな!)
「Where」(どこ)
「Okay」(オーケー)
「Lame」(つまらない)
「Focus」(集中する)
「Closed」(閉まった)
「Third Base」(3塁)(*6)
「Shut Up」(黙れ)など。

これらがすべてが固有名詞としても、形容詞や動詞としても一緒くたに使用される言葉遊びによって混乱を生む。

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例えば、こんな調子だ。※大文字表記がクラブの名称。

”There is WHERE.”
「ドコがある」

”Where is WHERE?”
「ドコってどこ?」

WHERE is where WAS was. Isn't it?”
ドコアッタがあった場所じゃない?」

”No, WAS wasn't where WHERE was. WAS was where WRONG was, right?”
「違う。アッタドコがあった場所じゃない。アッタマチガイがあった場所だよ。そうだろ?」

”Okay”
「わかったよ」

”Not OKAY. That place is Lame.”
オーケーはだめだ。あそこはつまらない」
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このやりとりのメタメッセージを受け取るならば、「英語の複雑な言葉遊びなんだな」と受け取ることだ。ただ、それでも彼らの身振りや周囲のラフ・トラック(=笑い声)によって、勘所は分かる。

*6 Third Base(3塁)
ちなみにこの『How I Met Yor Mother』のコントシーンは、1940年代頃に活躍したアボットとコステロというアメリカのコメディアン(今やアメリカではめずらしい完全な漫才形式)の「Who's on First?」というネタのパロディになっている。

上の動画で「Third Base!Right?」と発言したおじさんは、一人この会話についていけず、「Third Base(あのコント)のやつだろ?」と、ここでもメタメッセージのみを受け取っている。

下のアボットとコステロの動画は、「WHO(誰)」「WHAT(何)」「I DON'T KNOW(わからない)」の3人がそれぞれ1塁、2塁、3塁にいるという設定の野球ネタだ。結局「誰が今一塁にいるのか?」を巡る掛け合いが収集つかなくなるのも容易に想像できるだろう。

思い出したので書いておくが、以前インドの宿でWifiパスワードを聞いたら、宿主に「I don't know」と返された。Wifiがついていると聞いていたのにおかしいと思って、何度も聞き直し、「おかしいじゃないか何で知らないんだ」と口論になりかけた時、彼はニヤリと笑いながら、「I DONT KNOW」とゆっくり発音した。それがパスワードだったのだ。


海外コンテンツの邦題について物申す

泰斗:それでいうとね。まじでぶん殴りたいと思ってる人がいるんだけど…(笑)

M:はい…(怖)

泰斗:さっき言った『How I Met Your Mother』ってシットコムが素晴らしいんですよ。ちょっと古いドラマだから、恋愛観とかに関しては、今だったらキャンセルされるんだろうなってところも確かにあるんですけど。それでもすごくおもしろくて。

立て付けとしては、主人公が自分の子供に「どうやって今の結婚相手、つまり子供たちのお母さんと出会ったのか」っていうのを語り聞かせるストーリーっていう体裁になってて、メインのシーンは基本回想っていう枠物語なんですよ。

M:うんうん。

泰斗:その中で繰り広げられる仕事の失敗とか恋愛模様とかっていうのを追っていくんだけど、それが全部繋がって、どんなに苦しかった瞬間も乗り越えて、いろんな紆余曲折はあったけど今子供達の前で話せる状態にあるっていう。最初から後に訪れるハッピーエンドが確約されているからこそ、ストーリーの中で無茶できるっていう構造になっていて。

M:はいはいはい。

泰斗:っていうここまでは前置きね。要は、見応えのある物語なのにも関わらず、邦題が…

M:『ママと恋に落ちるまで』

泰斗:『ママと恋に落ちるまで』なの。これが気持ち悪いんだよ。邦題に関してどうのこうのって、あんまり言いたくないんだけど。これだけは許せない。まず、日本人がママっていうことと、アメリカ人がママっていうことの、言葉に対する距離感って全然違うじゃん。子供に対して言ってるっていうこともそのタイトルでは伝わらないし。ママと恋に落ちるって、近親相姦的な微妙な響きがあるし。

M:うんうん。確かにそうですよね。わかります。元々の原題では、指向性がはっきりしてるんですよね。誰が誰に対して言っているかっていう。

泰斗:そうそう。

M:すごいわかります。

泰斗:『ママと恋に落ちるまで』ってねえ。主格もないし。間違ってるでしょ。なんならもう、「君たちが生まれるまでの人生の物語」っていうぐらいでも全然今よりはわかりやすかったと思う。

M:なんなら超意訳するなら、超訳ですけど「なんで君らがここにいるか」みたいな。

泰斗:ああー!ほんとそうなんだよ!俺まじで、どっかのテレビ局が版権持ってると思うんだけど、それが切れたら版権取り直して、タイトルだけでも変えたいなって思ってたくらい。だから、これも趣味だけど、ドラマ内のわかりにくい翻訳の部分とか書き直したりしてて。

M:そういうプロテスト大好きです。最高です。誰かの人生が変わる保証はないけども。

泰斗:これは批評っていうか…

M:そうですね、確かに。えっ、批評を書くんじゃダメなんですか?訳し直すんじゃなくて。

泰斗:うーん。ま、それもあり。

M:それがあれですね。訂正なんだっけ。

泰斗:訂正可能性の哲学。

M:“We interpret”ってことですよね。

泰斗:そうそうそう。

M:再解釈をする。でも、再解釈ってそもそも新しい考えを生んでるわけじゃないですもんね。よりそれに解像度が近いものにするっていう。

泰斗:そうそうそう。それでさっき言いたかったやつで、岡田斗司夫が言ってたのが。聖書っていうのはいろんな人生のタイミングで読み直して、「こういうことだったのか」って再解釈する本としてあるもので。かつ、そこに書かれている言葉自体も、「ヨハネ曰く、こう言ってます」とか「マルコ曰く、こう言ってます」っていう話のコラージュっていうか、組み合わせでしかなくて。キリストが残した原文じゃないんだよね。

M:うんうん。

泰斗:キリストを知ってる弟子たちが残した言葉っていう。結局そこに"Interpretation(解釈)"が入ってるから。

M:残念なのは、結局翻訳家の功績というか、足跡って残らないっていう。

泰斗:そうか?

M:成果物は残るけど、それがどういう意図で訳したのかって、私たちは推測することはできるけど。もしかしたら、『ママと恋に落ちるまで』って翻訳したのにどうしても譲れない理由があるかもしれないじゃないですか。

泰斗:うんうん。

M:それ聞いてみたくないですか。

泰斗:そうね。コンテンツの消費のスピードが早くなってるから、最近だとプロセスを公開するコンテンツって増えてるじゃないですか。僕はそれをラジオでやりたいからメタなレイヤーの収録後記とかを書いてて。翻訳家も「翻訳しました、成果物が残りました」っていう以上に、「こういうことを考えて翻訳しました」っていう翻訳後記的なコンテンツがあってもめっちゃ読みたいなって思う。

M:そうですね。

泰斗:柴田さんがやってる『MONKEY』とか、最初のページに書いてる「はじめに」のページ読むの大好きなんですよ。

M:わかります。あれ読んで、本閉じる時もあるくらい。いいですよね。

泰斗:そうそうそう。

M:やばい終電です。帰ります。(バタバタ)

泰斗:ありがとうございます。楽しかったです。


・書き起こし後記

今回は、ボイスメモで録音した音声を聞き返しながら、手書きで書き起こした。最初にも書いたが、Mさんとはその日初めて会い、2,3ラリーの会話を交わした後で、すぐに「これは録音したい」という気持ちになった。
 
翻訳業と通訳、さらには演劇の脚本の造詣まであるというだけあって、文章や翻訳に関する思考が深く、常に問いを続けながら仕事をしているんだろうなということがよくわかった。僕の方も専門的でないにしても、自分なりに文学や海外コンテンツに触れる中で溜まっていた視点があり、共通して話せる話題が多かったことが嬉しかった。

会話の中で、自分が言いたいフレーズにつっかかると、ぽんっと言いたいことを言ってくれて、次に進む。次の展開への誘導を含んだ前のめりなシンコペーション的な相槌が、発話を二人の間で完成させている共話的な体験を生み、それが心地よかった。マリオカートのキノコを定期的に配置されているような感覚だ。

通常であれば、ここは割と説明が必要かなと思うところを説明しながら話すのだが、今回に関しては彼女の「わかります!そうですよね!」の言葉に含有された「説明は不要!私が話したいのはその次です」的な圧(これはいい意味で)に、ギアを上げさせられ、思わず話がドライブしてしまった。終電間際だったこともあり、最後の方はエミネムくらい早口で喋っていた気がする。まさに言葉の暴力。情報と情感を押し付けてしまった。
 
「もうちょっとあそこ深掘りたいですね」
「まだこの辺の言語化足りないよね」

と、指示語の曖昧なセンテンスを互いに投げ合った後、彼女は足早にバーを出た。総じて愉快な時間だった。

完。


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勝俣 泰斗
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