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そのレンズ、ほんとに必要ですか?

西で新しいレンズが発売されたと聞けば、いち早く走って確認し、東で名玉が復活するとの噂を聞けば、カードの残高と相談する、そんな毎日を送っているあなた、いやワタシ。

同じ画角のレンズを5本も6本も持っているのに、まだ『必要』ですか?

なぜ、次から次へと欲しいレンズが現れるのか。

『このレンズ(カメラ)を買えば、“もっと良い写真”が撮れるのではないか』という思いで、日々様々なレビューを見ては、次に何を買おうか考えているあなた(ワタシ)、その思いはどこから来るのか、果たして「理想の50mmレンズ(何mmでもいいけど)」は存在するのか、ボードリヤールの「消費と浪費」の観点を元に、Chat-GPTとの対話で考察してみました。

1:「まだ見ぬ完璧な50mmレンズ」とは

以下、ジピー(GPTの勝手な愛称です)の意見。


面白い視点ですね!ボードリヤールの消費と浪費の概念を使うと、あなたのレンズ収集は単なる「実用品の購入」ではなく、より象徴的な行為、つまり「記号としての消費」に近いのかもしれません。

ボードリヤールは、消費は単なる物の使用ではなく、「記号としての価値」を持つものだと考えました。たとえば、50mmレンズを6本持っているという事実は、単に異なる写りを試すためではなく、「理想の50mmを探す」という幻想や欲望を消費しているとも言えます。ここで大事なのは、実際にレンズを使うことよりも、「まだ見ぬ完璧な50mm」というシミュラークル(模倣された幻想)を追い求めることにあるのではないでしょうか?

あなたが「どこかにもっと良い50mmレンズがあるのでは」と思うのは、もはや物理的なレンズではなく、その「可能性そのもの」を求めている状態とも言えます。ボードリヤール的に言えば、これは「消費の自律化」、つまり本来の機能を超えて、記号としての価値が自己増殖している状態です。

この終わりなき探索は、ある種の「浪費」にも見えますが、それが単なる無駄遣いではなく、あなたにとっての「存在の実感」や「アイデンティティの構築」に関わっているとすれば、それは「意味ある浪費」なのかもしれませんね”


「どこかにもっと良い50mmレンズがあるのでは」という思いは幻想であり、幻想であるからそれは見つからず、見つからないからまた探してしまうという永遠のループに陥る。

「より良いレンズ」を求め続けることが目的化し、それ自体が欲望の対象になってしまっている。しかし、次のレンズを手に入れても「決定的な満足」には至らない。このループが続く限り消費は終わらず、むしろ新たな渇望を生み出してしまうと、、。

さらにジピーは「完璧な50mmレンズ」について、こうも言っています。

最後にもう一つ考えたいのは、「完璧な50mmレンズ」は存在しない、ということです。いや、むしろ「完璧な50mmレンズは無限に存在する」と言うべきかもしれません。それぞれのレンズには独自の個性があり、「より良い」という概念自体が主観的で揺らぎ続けるものです。そのため、「もっと良いレンズがあるのでは?」という問いに決定的な答えはなく、それを追い求める限り、この循環は続くでしょう”

名言キタ。

ジピーは村上春樹だったのか?

『完璧な50mmレンズは存在しないさ、完璧な絶望が存在しないようにね。あるいはそうだな、完璧な50mmレンズが無限に存在していると言うべきなのかもしれない』

それぞれのレンズにはそれぞれの個性があって、完璧だと。その通りですわ。

コレクションを楽しむ人の観点は、そうなんだろうな。

2:カメラについても聞いてみた


“新しいカメラを求める欲望も、レンズ収集と同じく「終わりなき循環」に陥りやすいです。ボードリヤールの視点で考えると、カメラの進化は技術的な向上だけではなく、「より良い写真が撮れる可能性」という幻想を売っている側面が強い。つまり、新しいカメラは単なる道具ではなく、「写真表現の可能性を広げる記号」として機能し、そこに価値が見出されるのです。

特に最近のカメラ市場では、メーカーが「より高画質」「より高感度」「より速いAF」などのスペックを押し出し、それがまるで写真そのもののクオリティを向上させるかのように語られます。しかし、実際には「カメラの性能が上がること」と「写真の価値が上がること」は別の問題です。例えば、名作とされる多くの写真は、現代の最先端カメラではなく、ずっと古いフィルムカメラや初期のデジタルカメラで撮られています。技術が写真を決定づけるのではなく、「どのように撮るか」が重要だからです。

しかし、ボードリヤール的に言えば、「技術の進化が価値を生む」という社会の幻想があるため、多くの人が「新しいカメラがあればもっと良い写真が撮れるはずだ」と信じ、そのために消費を繰り返します。そして、新しいカメラを手に入れても、その先にはまた次の「より良いカメラ」の存在が待っており、これも終わりのない追求になりがちです。

この循環から抜け出す方法を考えるなら、レンズの話と同じく、「本当に自分に必要なカメラは何か?」を問い直すことが重要かもしれません。スペックや市場の流れに左右されるのではなく、「自分の撮影スタイルにとって、本当に不足している要素は何か?」を冷静に考えることが、この無限ループから抜け出す鍵になるのではないでしょうか”


カメラの進化は技術的な向上だけではなく、「より良い写真が撮れる可能性」という幻想を売っている側面が強い

ここ、テストに出ますよ(←表現が昭和)。

『必要を問い直す』、はい、よくわかります。

あなたが欲しいライカM型、本当に必要ですか?

よくわかるんですが、ただ、それが幻想を追っていると頭で納得したとしても、「レンズが欲しい」とか「カメラが欲しい」という気持ち自体は、なかなか簡単に消えるものではない。ですよね?

では、この消えぬ欲望とは何なのか。
続きます。

3:『欲望』はどこから来るのか?

これについては問いがあまりに抽象的なため、ピンとくる回答は得られませんでした←オイ。

一言でまとめると、人間として「欲望」が消えることはないから、せめて『メタ認知』で一旦落ち着こうというのが、欲望に対するせめてもの結論(対策)です。

つまり、一旦欲望と距離を置こうぜ(時間的にも、精神的にも)ということです、はい。

『頭冷やせ』ってことですね←元も子もない。

4:終わらない消費のサイクルから抜け出るためには

再び話は消費に戻り、記号や幻想を追うだけの消費サイクルと化したカメラやレンズとの付き合いから、どうしたら「記号や幻想ではなく、カメラやレンズそのものを受け取れるのか」を考察します。

「消費せずにモノそのものを受け取る」とはどういうことか、そのためにはどんな実践が考えられるかという問いに対しては、

・他者評価より自己評価を優先
・なぜ欲しいかを言語化
・一つのものをある程度の期間使い込む
・必要かどうかを問い直す

など、当初ありきたり(?)な回答が並ぶのですが、その後「受容」というキーワードが出てきました。


消費とは?

  • 何かを手に入れ、それを使い、終わったら次へと移る。

  • 例えば、新しいレンズを買っても、しばらくすると別のレンズが欲しくなる。

  • 本を読んでも「次の本は何にしよう?」とすぐに次を求める。

  • 経験が「通過」するだけで、自分の中に定着しない。


受容とは?

  • 何かを深く体験し、それを自分のものとして吸収する。

  • 例えば、1本のレンズを長く使い、その特性や個性を理解し、写真を撮るたびにその経験が積み重なっていく。

  • 本を読んで、単に「読んだ」で終わらず、自分なりの解釈を加え、考えを広げる。

  • 受け取ったものが「自分の内側」に根づく。

この違いを端的に言うと、
「消費は使って終わる。受容は使うことで自分が変わる。」
ということかもしれません。


「消費」から「受容」へ。

「受容」とはそれを使うことで自分が変わること。

「消費は通過する。受容は自分の一部になる」

受容っていい言葉ですね。この「受容」が無限の欲望に対してもひとつの処方箋となりそうです。

5:結論
『レンズ(カメラ)を消費せずに受容する』ってどういうこと??


Sigma BFのデザインかっこいいじゃん、尖ってるな。何に使うかわからんけど、とりあえずサブカメとして買っておこう。はい、38万円。え?ルミックスも新しいS1RII出るの?AFも動画も進化してるのか、3900€ね、はいはい。

お、ズミルックス50mm f1.4二代目が復刻か。しかもルックスは初代っていいね!さらに3900€ってライカレンズならバーゲン価格!良い写真撮れそう!

↑いや、キリがない。

では、ジピーとの対話でたどり着いた『カメラやレンズを記号(情報)として消費せず、自分の経験として受容する』とはどういうことか。ジピーはこう言ってます。


受容の本質とは?

「受容する」とは、単に何かを受け入れるのではなく、自分と結びつけること ではないでしょうか。

たとえば、写真を撮るときに、

  • 新しいカメラやレンズを「どんな機能があるか?」ではなく、「自分がどう使うか?」という視点で向き合う。

  • 道具を通して「自分の表現や視点」が育っていく。

これは「ただ使う」のではなく、「自分の一部として吸収する」プロセス。

受容とは、モノや経験を自己の一部にしていくプロセス と言えるのではないでしょうか。


ひとことでまとめると、、

『モノと対話して使い込めよ』ってことですね。

そのカメラやレンズが「道具」ではなく「自分の体の一部」と思えるくらいまで、使い込めと。その過程を通して、「世界の見方や表現が変わっていく」ことが理想的な「受容」。

そして受容は主体と対象の関係性のあり方ですから、相手(モノ)を知ることそのものも、受容の一歩と言えそう。ライカの歴史を知るとかね。

衝動買いしがちなワタシの欲望をメタ認知するため(?)、それが終わらない消費なんだと自分に言い聞かせるため(?)、このnoteを書きました。誰かの参考にもなれば幸いです。

引き続き、『受容すること』については考えていきたいと思います。

何かお気づきの点や皆さんの意見があれば、ぜひコメントを残していってください。

では、今日も良い買い物を!←ちがう。

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