【アジア近代史】大東亜戦争はアジア解放のための戦争だったのかPART①(満州事変〜日本の国際連盟脱退まで)
今回はよく歴史問題に対して興味のある、または日本を愛してやまない?
保守を名乗る人々がよく言う「大東亜戦争はアジア解放のための戦争だった」という言説について私なりの考えを述べていきたい。
【大東亜戦争の本稿での定義】
大東亜戦争についての定義は諸説あるが、ここではまずWikipediaでの定義を参照したい。
まず初めの1937年7月7日とは盧溝橋事件の日である。盧溝橋事件(中国では:七七事変)とは北京市の豊台で駐屯していた日本軍の支那駐屯軍が軍事演習をしている際に一発の銃声があり(または日本側への発砲があった?)、中国側からの攻撃があったと判断し、軍事行動を起こした日中間の戦闘である。この事件を発端に全面的な日中戦争へ突入する。
そして1945年8月15日は多くの人が知っている通り、同年8月6日に広島、
8月9日に長崎へ米国に原爆を投下され、日本が連合国からのポツダム宣言を受諾し、降伏し、敗戦が決まった日である。
このおよそ8年に及ぶ戦争は日本が欧米列強からアジアを解放するための戦争であり、後世に語り継がなければならない。憎き鬼畜欧米人による植民地支配からアジア各国の人を解放し、そして彼らは今でも日本へ感謝している….
とは全くならないだろうが!!!!!!!
既に始まりの盧溝橋事件の時点でアジアからの解放の目的とは程遠い様な気がするのは私だけではないはずだ。PART①PART②では満州事変から日中戦争開戦までの流れをまとめてみる。PART①では満州事変〜日本の国際連盟脱退までを再度確認してみたい。
【柳条湖事件〜満州国建国】
日露戦争後に取得した中国の遼東半島に駐留していた関東軍は1931年8月19日の柳条湖事件(満州鉄道を関東軍が爆破し、中国軍の仕業だとした自作自演の事件)を発端に中国東北部一帯を攻撃し占領。清朝のラストエンペラーである愛新覚羅・溥儀(宣統帝)を擁立し実質関東軍の傀儡国家である満州国を建てた(1932年3月2日)。一連の流れを全て総称し、満州事変と呼ばれる。
なぜ満州事変は起こったのか。柳条湖事件を起こしたのは関東軍の板垣征四郎と石原莞爾だと後の東京裁判で判明している。彼らは軍部の一夕会という派閥に所属しており、協調外交を重視していた政党政治に不満を抱いた同グループは自らの力で満蒙(満州及び内モンゴル地域)を掌握し、日本の手に収めることが日本にとって経済的なメリットを享受できる唯一の手段だと考えていた。また当時の東北部は排日運動が頻繁に起きており、親日的な政権を樹立する必要があると陸軍の中で考えていた者もいた。
【満州国建国〜熱河作戦】
満州国成立当初の関東軍は黒竜江省、吉林省、遼寧省の東北3省を支配下に置いていたが、実質支配の及んでいない南西の熱河省についても満州国の領土の一部だと主張していた。中国東北軍である張学良軍は関東軍に東北地方での戦いに敗れ、熱河省へ退却していた。熱河省でも軍事活動・抗日活動を行なっており、関東軍はこれを満州国への脅威だと捉え、排除するために熱河作戦を実行(1933年2月23日)。張学良軍は中国国民政府の蒋介石から中国共産党との戦いを優先にしろ[安内攘外(先に国内安定、後に抗戦)]との命を受けていたため、関東軍からの侵攻にはほとんど抵抗せず、熱河省は関東軍の手に落ちた(1933年3月)。また一部は熱河省を越え中国本土の華北地域へも侵攻を進めた。
※当時は北伐によって中国の地方軍閥を倒し中国統一(1928年)を成し遂げた蒋介石率いる国民革命軍(南京国民政府軍)、中国共産党率いる中国共産党軍(紅軍)、そして関東軍の大きく分けて三つの勢力がいたことには留意しておきたい。
【日本の国際連盟脱退】
一連の日本による東北地域の侵略、満州国の設立を受けて中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。国際連盟はイギリス人を代表とする調査団を派遣を決定した。(リットン調査団)
リットン調査団は1932年2月29日に来日、3月から6月まで現地および日本を調査を行った。その直前に日本は上海事変を起こしており、また国際連盟主催のジュネーヴ軍縮会議も開催中で、平和維持の為の話し合いが行われていた。
1932年10月に結論つけられたリットン報告書は、日本の行為は侵略である認定した。ただし満州に対する日本の権益は認め、日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したが南満州鉄道沿線については除外された。
1933年2月24日、国際連盟総会はリットン調査団報告書を審議、日本の代表松岡洋右は満州国を自主的に独立した国家であると主張したが、審議の結果、賛成が42カ国、反対は日本のみ、棄権がシャム(現在のタイ)で可決され、日本代表松岡洋右は連盟脱退を表明し、会場から退席した。正式には日本政府は1933年3月27日、国際連盟脱退を通告した。
【次回】
国際連盟脱退後の中国と日本の間で満州事変の停戦協定が一旦結ばれることになる。しかしその後内モンゴル地域、華北地域で相次いで日本の傀儡政権を樹立させ中国での支配を一層強め、日中戦争開戦と繋がってしまう。次回は華北分離政策〜日中戦争開戦までをまとめていきたい。