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首こりアメリカ人 と 肩こり日本人

名の名とすべきは常の名に非ず

「老子」道徳経第一章より

「はて?」
「肩こりとは関係ないし、ちょっと何言っているのかわかりません。」

しかし、
この一文は「肩こり」という言葉をよくあらわしている。

これは、紀元前の昔に「老子」という人が残した言葉のひとつだ。

「老子」というのは難解で何を言っているのか分からないのが常のことである。

解釈するとこうだ。


「イヌ」といったら「犬」を意味しており、
「ネコ」といったら「猫」を意味している。

当たり前と思うかもしれないが、もしかしたら
この先の世の中では
「イヌ」といったら「猫」を意味しており、
「ネコ」といったら「犬」を意味するかもしれない。

ものごとと、その名前とのつながりが確かであるとは限らない。ものごとに対して、誰かが勝手に名付けたにすぎないからだ。

言葉の意味は常に生まれては消える。
いつどうなるかもわからない、開かれたものなのだ。

言葉に縛り付けられず、ものごとの真理を理解しなければならない。

<参考>
「老子 あるがままに生きる」(ディスカヴァー)
「マンガ老荘の思想」(講談社文庫)


となる。

やたらと哲学的に信をついている。
言いたいこともわかる。

だが、人というものは言葉に縛り付けられるものでもある。

「梅干し」と聞いたら
もう唾液がでてきてしょうがない。
私も、書きながらよだれが出て来そうだ。

言葉の力、恐るべし!

「肩こり」はどうだろう。
むかしは「肩癖(けんぺき)」が「肩こり」を意味していたが、今は「かたこり」が「肩こり」を意味している。
この先「かたこり」ではなく「くびこり」と呼ぶ世の中になることだってありうるのだ。

そんな「肩こり」という言葉に、私たちは縛り付けられることなった。


首こりアメリカ人、肩こりになる?

こんな話がある。

あるアメリカ人男性が日本に赴任してきた。

彼は一度も「肩こり」になった事がなく、「肩こり」という言葉も知らなかった。

彼には日本人の友人がいた。
その友人は「肩こり」だった。

その友人から「肩こり」という言葉と、その症状を教えてもらった彼。

ある時、友人と久々に会った彼は、
嬉しそうにこう言った。

「私も肩こりになったよ。」

英語圏には、日本人が言うところの「肩こり」を表す言葉がない。
彼は「肩こり」という言葉を知って理解することで「肩こり」になったのだろうか。

もしくは、
もともと「肩こり」に相当する症状を持っていたが症状に名前がなかった。
そこへ「肩こり」という名前がついた。
「肩こり」という言葉と症状がいっちして、認識したことで「肩こり」になったのだろうか。

こうして、彼は肩こりアメリカ人となった。

「肩こり」というものが、いかに主観的なものかということがわかる話だ。

「肩こり」を英語に直訳するとstiff shoulder(スティフ ショルダー)という。

しかし、英語でこのような表現はあまりしない。

では、肩を表す「shoulder(ショルダー)」という単語はどのような意味で使われるのか。
英英辞典で調べると「腕がつながっている部分」と説明される。

つまり、肩関節という意味合いが強い。

だから、英語圏の人に
「stiff shoulder(スティフ ショルダー)」と言ってしまうと、

「肩関節が硬いの?」
「五十肩?」
「それをいうならfrozen shoulder(フローズン ショルダー)だろ。」

みたいな反応になる。

では「肩こり」に一番近い英語表現は何か。
「neck pain(ネック ペイン)」だ。

実際に「肩こり」の多くは、図の僧帽筋と言われる筋肉に起こりやすい。
中でも、矢印で示した首と肩の付け根部分に起きやすい。

この部分は、首とも肩ともとれるので
「ネック ペイン」といわれても、うなずける。
日本語でいうと「首こり」ということになる。

日本に赴任した彼。
本当は首こりアメリカ人だっただろうに。

日本に来たら、肩こりアメリカ人になってしまった。

肩こり日本人

日本人の「肩こり」はどうだろう。

一般的に「肩こり」という言葉は、夏目漱石が作ったといわれている。
明治末の小説「門」のなかで、主人公の肩の状態を次のように描写した。

頚と肩の継ぎ目の少し背中へ寄つた局部が石のように凝っていた

夏目漱石「門」より

「おや?」

「凝っていた」とはいうものの「肩こり」とは書かれていない。
しかも、これは頚と肩の継ぎ目の凝りだ。
アメリカ人の「ネックペイン」のように「首こり」と表現されてもおかしくはない。

なぜ、多くの研究者や知識人がこの文章を挙げて
「『肩こり』という言葉を作ったのは、夏目漱石なんです。」と得意顔なのかがわからない。

きっかけにはなったと思うが、決して作ってはいない。

明確に文字として「肩こり」が登場するのは、昭和12年の内田辰雄の「上膊肩甲関節周囲炎について」という論文が最初らしい。

ということは、
「肩こり」という言葉は、明治末から昭和初期にかけて出来上がったと考えられる。

日本人の「肩こり」の特徴はどうだろうか。

日本人の肩こりと欧米人の首こり(neck pain)を比較した研究がある。

この研究によると、
日本人の肩こりは欧米人の首こりに比べて、心理社会的ストレスに影響を受けやすいという。(沓脱正計:日本人が訴える肩こりの特徴について.2010年より)

日本では、伝統的に「肩」という言葉の意味を、精神的な負担や緊張を表現するものとして用いられてきた。「肩に掛かる」「肩の荷がおりる」「肩を持つ」「肩を怒らせる」「肩で息をする」「肩入れする」「肩を落とす」など、想像しただけで肩がこる。

そう考えると、日本人は肩に意識が集中しやすいといえる。

それに加え、日本人は症状の原因について心理的説明を避け、体質など身体的な特性に帰属させようとする傾向を持っている。(改田明子:身体症状に関する認知の研究.2001年より)

つまり、その心理社会的ストレスを身体化させた結果として「肩こり」を訴える人が多いのだ。

そんな日本人の「肩こり」。
周囲から気づかれにくい。

脚や腰ならば、明らかに歩き方がおかしくなるので、同情されやすいが、肩の問題は見た目ではわかりずらい。自ら宣言しない限り周囲も気が付きにくい部位だといえる。

肩こり日本人は、心身的に孤独でつらいのだ。

親が「肩こり」でないと子は困る?

肩こり日本人はつらいのだが、
親に肩こりがないと、日本の子どもたちは困ってしまう。

昔から、肩たたきは親孝行の象徴だった。

親は子に肩たたきしてもらいたいし、
何かあると子は親の肩をたたきたい。

母の日、父の日、敬老の日など、
私たちは、事あるごとに肩たたき券を発行してきた。

積み上げると、いったい何枚の肩たたき券を発行してきたのだろうか。

親は喜び、子どもにとっては誕生日や子どもの日に、大きなリターンも期待できる。
ウィンウィンの関係だ。

この親孝行ごっことも思える一連の儀式は、
親に「肩こり」があるのが前提だ。

親に「肩こり」がないと、肩たたき券は紙くずと化しまい、儀式も成立しなくなる。

だから、親には多少の「肩こり」がないと子は困る。

ここでいう親というのは、子育て世代のことだ。
子育て世代の「肩こり」の割合はどうなっているのか。

調べてみる。

すると、
子育て世代の「肩こり」は、他の世代よりも明らかに多いという。

この傾向は、日本のみならずアメリカでも同じだった。

2003年の矢吹省司の研究によると、常に肩こりを感じるという割合は、青壮年者が22%で高齢者が8%だったと述べている。

アメリカの医師ジョン・サーノは、著書「ヒーリング・バックペイン」のなかで、肩を含む背腰痛の77%が30~50代、11%が60代以上だったと述べている。

さらに彼は、30~50代を「責任の年齢」としており、一生のうちで最もストレスがかかる年齢としている。

きっと世界中の子育て世代は「肩こり」になりやすいのだ。

私もこの世代だ。
実際キツイ。
今思うと、私の親もこうだったのだろう。

「その節は、2浪させてまで大学に行かせてくれてありがとう。」「そうまでして行った大学を卒業して、いい会社に就職できたのに、『プロスノーボーダーになる』と言って2年半で会社を辞めてゴメン!」「さらに反対を押し切って日本を飛び出してゴメン!」

「自分の子どもがこんな感じだったらどうしよう。」
肩がこる。

しかし、この「責任の年齢」を子どもの肩たたきと共にどうにか乗り越えた先には、「肩こり」の割合8~11%という、「肩こり」が楽になるであろう年齢が待っている。そこまで踏ん張りたいものだ。

とはいえ「肩こり」というものは、決して肩たたきで治るものではない。
効果があるというのは、間違いなくプラセボ効果だ。(※効果がない薬を飲んでも効果がでることをプラセボ効果という)
信じればプラセボ効果もひとつの治療となるのだ。

私が子供のころは、いつも肩こり母の肩たたきをしていた。
楽になったと母は喜んでいたので、少なからず効果があったのだろう。

そして、母は現在70代。
「肩こり」が少ない世代となった。

母の「肩こり」は、今どうだろう?
帰省した時に肩たたきを頼まれないので、良くなっているのかもしれない。

期待しつつ、実家の母に電話してみる。

「もしもし、お母さん?」「今、肩こりある?」
「あるよ。でも以前ほどはないかな。」
「俳句をず~と書いていると肩がこるし、お父さんの介護で肩がこる。」
「わかった、ありがとう。」
ガチャ。。。

「肩こりあるんか~い!」

うちの母は、60代以上の「肩こり」8~11%のうちの一人だった。

それでも、以前ほどではなくなっていたので良かった。

母は仕事をしながら、PTA会長をしながら、すべての家事をしながら兄と私を育ててくれた。

さすがにこの時よりは、肩の荷がおりたようだ。

今は、父の介護をしていて、
父の生活が母の肩にかかっている。
その分の「肩こり」かもしれない。

「お母さん。今度実家に帰ったときには、また肩たたきをさせて下さい。」

首こりアメリカ人と肩こり日本人

首こりだろうが、肩こりだろうが
アメリカ人も日本人もストレス過多で大変だった。

neck(ネック)と言う言葉を調べると、
「首」と言うだけではなく、「命」とか「危険を冒す」要素があった。

「首」が命に係わるところだからだろう。
英語圏の人にとっての「首」は、ストレスが高すぎて、日常生活とは結び付きづらいかもしれない。

日本人にとっての肩は、治療の対象というだけではなく、責任、安心、ストレス、やさしさ、親孝行、威権など、日常生活の多くのものごとと結び付きやすくて嫌でも意識される。

「老子先生!」
“言葉に縛られずに、ものごとの真理を理解する”
「無理なようです!」

そんな「肩こり」。
自分が生きてきた中で築き上げた物語として、身体に現れるのかもしれない。

その対策は?
それはまた別の話で。

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