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バッティングセンターで人生を打つ。 【エッセイ】

 ガタン。重厚な機械音が小さく響くと、少しして壁の穴から白い球が放り出された。ヘルメットを被った男の子は、振ったバットの重さに耐えられずに身体が回転してしまう。「がんばれ!」ネットの後ろから母親らしき女性が応援している。カキン。男の子は甲高い金属音を鳴らしたあと、顔に力を入れて手をぶらぶらさせた。

 ベンチから腰を上げると、男は打席へと踏み出した。心臓の鼓動が男の耳を強く叩いている。この瞬間を待っていたんだ。男はネットをひらりと避けて打席に入った。バットを持って、百円玉を3枚を差し込む。残りの球数が表示された。20。

 初めての打席は空振りだった。どうしたらいいか分からなくて、がむしゃらにバットを振る。今度は少し掠ってファウル。ファウル。ゴロ。ゴロ。当たるようになってくると、次第に楽しくなってきた。残り15球。まだまだ打てる。男の頭の中は期待に満ち溢れていた。最後の方にはホームランを打てたりするのかな。

 この場には男のほかに親子しかいないというのに、上達するにつれ男はフォームを気にするようになる。ファウル。空振り。人の目を意識した途端、打つのが下手くそになった。さっきまでうまく行っていたのに、男は自分を責める。試行錯誤を重ねて打ち続けた。ゴロ。ヒット。空振り。打ち方が分からなくなってしまった男は、苛立ちを覚えている自分に気がついた。残り10球。どことない不安が男を襲う。打てないまま終わってしまうんじゃないか。

 飛び出してきたボールを睨む。だんだんと近づいてきたが、目を離さない。ここだ。男は脇を締めつつ、リラックスしてバットを振った。カキーン。衝撃を感じないまま、白いボールは向こう側のネットへと突き刺さった。そうだったのか。男はコツを掴んだ喜びを感じる片隅で、これまでの打ち損じを後悔していた。あの時にこうしていれば。空振り。過去を悔やんでいるとうまく打てない。男は頭の中を空っぽにして、今のボールに集中するように努力した。ヒット。ヒット。男は何もかも上手くいく自分に酔いしれていた。空振り。しかし突如、漠然とした不安に駆られる。手には力が入らなくなってきているし、もうすぐ残りの球数がなくなってしまう。不満はないけれど、果たしてこれで良かったのだろうか。疲労と焦燥感、そして葛藤。残り5球。もうすぐ終わりだ。いや、まだ何かできるだろうか。

 終わらないことを願っていると、あっという間にその時は訪れてしまう。それなら、一球一球を楽しんだ方が良さそうだ。男は諦めにも似た脱力感でバットを振った。ヒット。そうか、これがバッティングの楽しさだったのか。打席に入る前の気持ちを、いま思い出した。気が付くには少し遅すぎたかもしれない。でも、それが人生というものだろう。ヒット。ゴロ。ゴロ。当たる確率は確かに高まっていた。しかし、ボールは次々に力なく転がっていく。次がラストだ。男はもはや期待することも不安に思うこともなかった。ガタン。機械が動き出す。ただ、向かってきた白い球を受け入れて、自分の力を託すように鉄の棒を差し出した——。

 残りの球数が0になっていることを確認すると、男はバットを置いて打席を後にした。懐かしいようなベンチに腰を下ろして、機械の音がする方を見る。相変わらず親子が練習を続けていた。熱を帯びた手のひらを見つめながら、男は少し上がった息を整える。やがて疲れが回復すると、男はベンチから立ち上がって歩き出した。カウンターの向こうでは、高齢の男が新聞を眺めている。
「あの、ホームランのところに当たったんですけど」

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