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大村純忠の娘たち ~「マリーナ伊奈」と「とら」~

前回の記事で大村純忠の娘、松東院メンシアについてふれたので、今回は、純忠の娘で長崎の郷土史上よく登場する「マリーナ伊奈」と「とら」について書きたいと思います。

全国的に知名度が高いのは松東院メンシアだと思いますが、純忠には他にも娘がいて、みな熱心なキリシタンだったと言われています。

①マリーナ伊奈
大村純忠の長女で大村藩初代藩主、喜前の姉。大村氏系図ではなぜか早世したことになっているそうですが、家臣の朝長純盛ともながすみもり(朝長氏。次代に浅田氏へ改姓。)に嫁いでおり、熱心なキリシタンであったことが宣教師の記録にも残っています。大村市の辻の堂墓地と長崎市琴海戸根町の自證寺という日蓮宗のお寺に墓があります。


長崎市琴海戸根町にある本住山自證寺。日蓮宗のお寺です。(2022/2撮影)


山門は大村氏の居城、玖島城の遺構だといわれています。


戸根は棄教を拒んだマリーナが日蓮宗を装って庵を結んだところで、禁教令後マリーナは藩主、大村喜前の黙認の下、この地に宣教師を匿ったりしたそうです。後にマリーナの孫にあたる大村藩城代家老の浅田安昌が寺を建て、祖母の戒名「自證院」から名をとって自證寺と名付けたそうです。

そしてこの自證寺は、天正遣欧少年使節としてローマに赴いた千々石ミゲルと深い関連があることでも知られています。といいますのは、

マリーナの孫である浅田安昌にミゲルの孫娘のテイ(ミゲルの墓碑を建立した千々石玄蕃の娘)が嫁いでいる。
伊木力という場所にある”千々石ミゲル墓所推定地”の所有者は浅田氏の末裔である。
・墓碑に書かれた戒名と同じ戒名の位牌が自證寺の浅田氏の箱位牌中に祀られている。

からです。
(これらは千々石ミゲル墓所調査プロジェクトの調査統括、大石一久氏の著作等に書かれています。また、同プロジェクト代表である浅田昌彦氏は城代家老浅田氏の子孫にあたります。)

ちなみに、千々石ミゲルは大村純忠の甥(弟の子)ですからマリーナや大村喜前とは従兄弟同士になりますね。有馬家当主、有馬晴信も従兄弟(純忠の甥=兄の子)にあたります。このあたりの有馬氏・大村氏の血縁関係は強固なものがあるようです。

閑話休題

マリーナのお墓は大村市の辻の堂墓地にあるそうですが、自證寺では平成2年に全く同じものを作り、寺の背後にある歴代住職墓地の中央に建立したそうです。


自證寺にあるマリーナの墓。


「純忠長女」の文字が見えます。


マリーナに関連して、諫早市の伊木力にある”千々石ミゲルの墓と思われる石碑”と、大村市の本経寺にあるミゲルの孫娘、テイの墓も紹介します。ミゲルの息子の玄蕃は大村純忠の後妻”しんほふ”の養子となり、更にその娘のテイは大村喜前の娘、コヨの養女となっているので、テイは藩主家の姫としての扱いを受けその墓は大村氏菩提寺の本経寺にあるそうです。


千々石ミゲルの墓と思われる石碑。


ミゲルの孫娘でマリーナの孫、浅田安昌の妻であるテイの墓。


②とら
「とら」の夫は元亀2年(1571)長崎開港時の長崎領主だった長崎甚左衛門純景といわれています。
甚左衛門は永禄6年(1563)に大村純忠と一緒に横瀬浦で洗礼を受けた家臣の一人で、洗礼名はベルナルド。開港以前の長崎の中心地は長崎氏の館があった桜馬場一帯(現在の長崎市桜馬場町、夫婦川町、片淵1丁目付近)で、永禄10年(1567)には修道士アルメイダが来崎、布教し、永禄12年(1569)にはヴィレラ神父により長崎初の教会であるトードス・オス・サントス教会が建てられました。
この長崎氏を取り込むために純忠が嫁がせたのが「とら」で、その名前から寅年の生まれで、純忠が22才の時に側室に生ませた娘と推測されています。


長崎市の長崎公園にある長崎甚左衛門像。


永禄12年(1569)長崎甚左衛門から与えられた地にヴィレラ神父によって建てられた教会「トードス・オス・サントス教会」の跡地。禁教令後は春徳寺という臨済宗の寺になっている。


春徳寺門前にあるトードス・オス・サントス教会跡地の碑。
慶長2年(1597)教育機関であるコレジオ、セミナリオも一時併設された。


春徳寺近くにあるアルメイダの布教記念碑。


しかしながら元亀2年(1571)の開港にともない整備された”長い岬の先端”にある長崎6町(島原町・大村町・平戸町・横瀬浦町・文知町・外浦町)は甚左衛門の城下から2,3キロ離れており、長崎開港は甚左衛門とは切り離した形で行われたということが定説となってるようです。

その後甚左衛門は、慶長10年(1605)に幕府が長崎外町を接収した際にその領地を失い、藩主喜前からの替地を断り筑後国主の田中吉政に2400石で仕えます。しかし元和6年(1620)田中家が無嗣改易となったため甚左衛門は大村藩に戻り横瀬浦で隠居、元和7年(1621)に時津で亡くなります。翌元和8年(1622)夫人のとらが没。

現在、長崎県の時津町西時津郷に長崎甚左衛門夫妻の墓が建っています。元禄15年(1702)に子孫の大村内匠助長頼が建てたものですが、以前のnote記事「無嗣改易⁉️大村藩存続の危機① ~忠臣編~」に登場した松浦右近頼直が長崎甚左衛門の養子だったことがあり、その領地に右近の子孫が建てたものだそうです。



長崎県時津町西時津郷にある長崎甚左衛門夫妻の墓。


今回は大村純忠の娘である「マリーナ伊奈」と「とら」を周辺エピソードと共にご紹介しました。
ほかに純忠の娘として、龍造寺隆信の次男である江上家種に嫁いだ「ふく」がいます。大村市と佐賀県神埼市にお墓があるそうですが、いつか訪問できればと思います。

今回もお読みいただきましてありがとうございました。


参考文献
・『千々石ミゲルの墓石発見』(2005.4/大石一久/㈱長崎文献社)
・『旅する長崎学1 キリシタン文化Ⅰ』(2006/五野井隆史、デ・ルカ・レンゾ、片岡瑠美子監修/㈱長崎文献社)
・『旅する長崎学2 キリシタン文化Ⅱ』(2006.5/五野井隆史、デ・ルカ・レンゾ、片岡瑠美子監修/㈱長崎文献社)
・「<トピックスで読む>長崎の歴史」(2007.3/江越弘人/弦書房)等


*千々石ミゲル墓所調査プロジェクトのHPはこちら。


*松浦右近に関する以前のnote記事はこちら。






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