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千々石ミゲル生誕地、釜蓋城跡訪問  @長崎県雲仙市(2022/1)

前の記事「大村純忠の娘たち」で、マリーナ伊奈に関連して天正遣欧少年使節の1人である千々石ミゲルについてふれたので、2年前の1月のことですが初詣がてら訪問した千々石ミゲル生誕地である釜蓋城跡を紹介します。
なぜ初詣かというと、城跡は雲仙市千々石町にある橘神社(軍神、橘中佐を祀った神社)の裏山付近にあるからです。

*以前の記事「大村純忠の娘たち~「マリーナ伊奈」と「とら」~」はこちら。


雲仙市千々石町は長崎県の島原半島の付け根、橘湾沿いにある町です。釜蓋城は千々石ミゲルの父である直員が城主をつとめたと言われています。
位置関係はこんな感じです。


まずは橘神社へお参り。

こちらが橘神社。日露戦争の遼陽の戦いで戦死し、以後「軍神」と呼ばれた
陸軍中佐、橘周太を祀った神社。春には桜の名所としても知られています。


有馬氏に臣従した千々石氏の本拠地である釜蓋(かまぶた)城は島原半島の重要な城の1つでしたが、龍造寺氏に攻められ落城、ミゲルの父親である千々石直員(大村純忠の弟)は自刃したと伝えられています(諸説あり)。ミゲルは乳母に抱かれて大村に逃れたとも、落城より前に大村に移っていたとも言われています。

付近は橘公園として整備されており、山城の遺構はあまりないように思いましたが、神社から10分ほど登った小高い丘に櫓風の展望台、ミゲルの記念碑が立っていました。


橘神社の裏山を歩いて登ります。


天満神社。御祭神は菅原道真で千々石大和守直員、
町田兵七郎、木戸萬九郎が合祀されています。


*現在では一般的に、有馬晴純の三男の直員が千々石氏へ養子入りし、その子がミゲルだといわれてますが、『日本城郭大系第17巻 釜蓋城』には千々石淡路守直員は元亀元年(1570)に石切谷の戦いで戦死し、その後嗣の大和守澄員は天正5年(1577)に龍造寺氏に攻められ老臣木戸万九郎とともに自刃、家老の町田兵七郎も殉死、ミゲルはその大和守澄員との子と書かれています。天満神社に合祀されている町田兵七郎、木戸萬九郎は大和守澄員とともに自刃した家臣のようです。この辺りは諸説あるようですね・・。


天満神社拝殿


神社の敷地内にある清流。城の遺構でしょうか?


*ちなみにこちらの天満神社、拝殿の横に2022年4月、千々石ミゲル清左衛門の供養碑が建てられたそうで、再訪しないといけませんね。
こちらの”長崎と天草地方のキリスト教関連歴史文化遺産群ウェブサイト「おらしょ こころ旅」”に天満神社の供養碑の写真が出ていますので、ご参照ください。

https://oratio.jp/p_burari/tijiwamigerunokuyouhigatatutenmanguujinzyaheasiwonobasu


さて、天満神社から更に上ります。

グラウンドから望む釜蓋城跡。遺構はほとんどないといわれています。


櫓風の展望台。


千々石ミゲルの記念碑。


釜蓋城由来記


青天に穏やかな橘湾が美しく映える温暖な地を眺めながら、ミゲルの父は何を夢みたのだろう…息子が将来この海を渡ってローマに行くとは想像だにしなかっただろう、と思いました。


展望台から望む千々石の風景。



なお、雲仙市千々石庁舎(旧千々石町役場庁舎)に「至純の人 千々石ミゲル」として銅像が建てられています。釜蓋城跡訪問と別の日(2021/11)に写真を撮ったので、ここに掲載します。

「至純の人」千々石ミゲル像。(2021/11撮影)


こちらは大村市の長崎空港のそばにある天正遣欧少年使節4人そろった銅像の写真(2019/3撮影)です。海上にある長崎空港から本土へ橋を渡ると右手にありますので、長崎にお越しのに際は是非ご覧いただければと思います。

天正遣欧少年使節顕彰之像。(2019/3撮影)


今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。


参考文献
・『千々石ミゲルの墓石発見』(2005.4/大石一久著/㈱長崎文献社)
・『旅する長崎学2 キリシタン文化Ⅱ』(2006.5/五野井隆史、デ・ルカ・レンゾ、片岡瑠美子監修/㈱長崎文献社)
・『日本城郭大系第17巻』(1980.11/平井聖ほか編修/新人物往来社/国立国会図書館デジタルコレクション)



*千々石ミゲル墓所発掘調査については先ごろ調査報告書が公開されましたので、ご興味ある方は以下のリンクから御覧下さい。報道等では伊木力にある墓はミゲルの墓所と「確定」したといわれています。



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