見出し画像

【リライト】日本近代統計の祖、杉亨二について

こんにちは。肥前歴史研究家(自称)のひとみと申します。
今回は、12月4日が命日とのことで「日本近代統計の祖」と呼ばれる杉亨二こうじについて書きたいと思います。

*この記事は以下のnote記事のリライトです。



長崎県統計課広報担当キャラクター「杉さん」

杉亨二という人物、一般的にあまり知られていないと思いますが長崎出身の「日本近代統計の祖」と呼ばれる人物で、2020年に長崎県統計課の広報担当キャラクターのモデルとなっています。
下のXアカウントのアイコンが、杉亨二をモデルとしたキャラクター「杉さん」です。(ゆるキャラにしてはかわいくない、とか言わないで・・汗)


*長崎県のHPより


苦労した若年期

杉亨二は文政11年(1828)長崎の本籠町もとかごまちの生まれ。
幼くして両親を亡くし医師であった祖父に育てられ、10歳の頃、時計師上野俊之丞しゅんのじょう(上野彦馬の父)の店に奉公し、16,7歳の頃に上野家に寓居していた大村藩医、村田徹斎の書生となる。
(上野俊之丞は癇癪もちで苦労をしたようです。)

「・・(俊之丞に)夜は腰をもませられ居眠りをすれば豚だなどゝ罵られ、足で蹴られることもあつた。嗚呼父母が居たならば斯ふ云ふ難儀もあるまいに、と子供心に思つたことが度々あつた。」

(河合利安 編『杉亨二自叙伝』,杉八郎,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用。
括弧内は筆者による補足。)


適塾へ

嘉永元年(1848)大坂の緒方洪庵の適塾に入るも脚気にかかり村田徹斎の下に戻る。同時期の塾生に村田蔵六(のちの大村益次郎)、佐野常民がいた。

「大阪に着き緒方洪庵の所へ行き、學資金も無いから寫本をするか、按摩をとつて修業したいと願つた、先生も承知して呉れて夜分門限も許された、そこで・・(中略)
其所に三ケ月ばかり居たが、其時始めて箕作秋坪と懇意になつた。村田蔵六(後に大村益次郎)佐野永壽(後に常民)も塾に来て居た。佐野は藩命で来て居ると云ふ事であつた。・・(後略)」

(出典上記に同じ)


佐野常民像。佐賀藩精煉方のリーダーとして活躍し、長崎海軍伝習所にて海軍技術を学ぶ。三重津海軍所の発展にも尽力し、「凌風丸」建造にも関わった。後に日本赤十字社の前身である「博愛社」を創設。佐賀七賢人の1人。


杉田成卿の門下生から勝海舟の私塾長へ。

その後上京し、信州松代藩医、村上英俊を手伝いフランス語辞書の編纂を行う。 嘉永5年(1852)、杉田玄白の孫で蘭学者の杉田成卿せいけいの門下に入り蘭学を学ぶ。翌年、勝海舟と知り合い勝の私塾で講師を務める。

*以下は勝塾の講師として自薦する話ですが、この場面、確か司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも引用されていたと思います。なかなかユニークな人物ですね。

「勝に面會して余が言ふに、あなたの所にも大分書生が居るやうですが、如何でせう學問はそんなに出来ませぬが人物はたしかで、あなたの書生位は教へられませうからお置きなされてはと、勝はそれは好い人だ、さう云う人なら欲しいから世話をして下さい、何といふ人で、と筆を繰て書かうとした、余は、實は私でとやつた、さうしたら勝も變な奴だと云ふ鹽梅でハーさうか、あなたなら明日からでも宜いと言った、・・(後略)」

(出典上記に同じ)

老中、阿部正弘の侍講から開成所教授並へ

勝の長崎海軍伝習所同行者の名簿にあった杉に老中の阿部正弘が興味を持ち、「十五人扶持、月二両、書物は望み次第買い渡す」(『杉亨二自叙伝』より)という条件で阿部家の侍講じこうとなる(本人は海軍伝習所へ行きたかったらしい)。
万延元年(1860)に江戸幕府の蕃書調所ばんしょしらべしょ(後の「開成所」)教授手伝となり、元治元年(1864)には開成所教授並になる。
この頃バイエルンの教育統計を見た杉は「・・斯う云う調は日本にも入用な者であろうと云うことを深く感じた。是れが余のスタチスチックに考を起こした種子になった」(『杉亨二自叙伝』より)という。

明治期の杉

明治維新後は静岡藩に仕え、明治2年(1869)には「駿河国人別調するがのくににんべつしらべ」を実施したが藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった。

明治4年12月24日(1872年2月2日)に太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)に任じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行う。

明治12年(1879)には日本の国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人調かいのくにげんざいにんべつしらべ」を甲斐国(山梨県)で実施。
その後は統計行政に携わる中、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。

大正4年(1915)に勲二等瑞宝章。大正6年(1917)12月4日に90才で没。
その3年後の大正9年(1920)に第1回国勢調査が実施される。

出身地である長崎市の長崎公園には杉亨二の胸像があり、毎年命日である12月4日には長崎市統計課が献花式を行っているそうです。


長崎公園にある胸像。


スタチスチック(statistics)とは?

英語の「statistics」をカタカナ表記したもので、明治時代に統計学を意味していた。この西洋から輸入された言葉は「政表」「統計」などと訳されたが杉は納得できず、自ら「寸、多、知、寸、知、久」という文字を組み合わせた創作漢字を使った。

*杉が創作した漢字は以下の統計局HPで見ることができます。

なかなか拘りの強い、信念の人でもあったのですね。

まとめ

最後に、杉亨二についてまとめると以下のことが言えると思います。
①幼少期に苦学し、長崎出身ながら洋学(蘭学)を学んだのは長崎ではない。(雨森茂太先生の講座内でも指摘アリ)
②勝海舟への自薦時のエピソードや漢字を創作するなど、ユニークな性格だったのでは。
③西洋の学問・概念である統計を日本に導入するために尽力した信念の人。

次の国勢調査は来年、令和7年(2025)10月1日に行われますが、その際に杉亨二のことを思い出していただけると有難いと思います。

以上、2022年5月20日の記事に補足を加えてリライトしました。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。


<参考・引用文献>
●河合利安 編『杉亨二自叙伝』,杉八郎,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/980787 (参照 2024-12-03)
 *この自叙伝は本人の口伝を基に書かれてあり面白いです。ネットで閲覧
 できますので、ご興味ある方は是非ご覧下さい。
●総務省統計局HP

そして、この記事は令和6年9月27日(金)に長崎歴史文化博物館で開催された【令和6年度 第3回 長崎学ネットワーク会議公開学習会】の「杉亨二と統計学」(講師:長崎大学経済学部准教授 雨森茂太氏)を参考にさせていただきました。



いいなと思ったら応援しよう!

ひとみ
よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。