『批評の非運』あへてしらふで酔つてみせる
この論文が発表されたのは昭和二十二年である。
ここに批評家に対するひとつの批判がある。
批評家とは自らの手を汚さずに大言壮語ばかりする人間のことであり、彼らには生活がない、というものだ。
福田は答えて曰く。
仰る通り、私には自信が欠けている。「これぞわが生活といふほどの生活もなく、このひとを見よといふほどの自己もなく、汚すにたるほどの手ももたぬ」。だが「そのふがひなさだけは身にしみて承知してゐる。自分の俗物性、いんちき性、人間内容と生活の空疎、それだけはいやといふほどみづから意識してゐる。それゆゑ生活や体験を表看板にぶらさげることを極度におそれるのだ」と。(『批判の非運』福田恆存全集第二巻)
福田は問う。そもそも作家の言う「生活」とは何を指すか。
それは自己の真実を拠り所にして、己れの欲望を通すのに臆せず、他人への迷惑をも顧みず、しかもそれでいて何物かを生産できるという、つまらぬ自信のことではないか。それが作家の言う「生活がある」ということだとするならば、よろしい、自分には「生活はない」。なぜならそもそも、自分には、信ずるに足る自己の真実などというものはないからだ。
「生活がある」作家諸君よ、酒に酔わなければ語れぬ真実とは一体如何なる真実であるか。人はそんなものに耐えられようか。
ここに批評家に対するもうひとつの批判がある。
「文芸批評が作品を手がかりにして作家の人間像そのものに迫り、あるいはこれに精緻な分析をほどこし、あるいはそのみごとな造型をくはだてたにしても、それだけではなにもならない、そこからふたたび作品に、すなはち作家の肉体的な表現であるところの文章そのものにもどつてこなくてはいけない。」(『批判の非運』福田恆存全集第二巻)
福田は言う。
作品そのものの中に美が見出せるならば、そもそも作家の人間像などに迫る必要はない。作品そのものが文学的に美しいのであれば、事はそれで足りるのだ。
だが少なくとも近代日本の文学に限って言えば、作品の中に文学的な美はどうしても見出せない。そのなかで、仮に文学的なものがあるとするならば、それはミューズに捧げられた作家の情熱だけである。福田はその情熱の真実性だけを固く信じる。
要するに、作品それ自体ではなく、作家の情熱にだけ真と美を見る福田にとって、最終的に「作家の肉体的な表現であるところの文章そのものにもどつて」行くなんてことは、あまりにも不可能なことであった。
だからと言って反対に、作家のあらゆる心理的現実を社会的現実に翻訳し切ろうとする態度は、文芸批評の態度とは言えない。それはすなわち文学史を社会史に解消せしめる結果になるだけだ。
あくまで福田は、社会史に翻訳できない作家の情熱の存在を光として、暗闇のなかを手探りで、批評家として生きる。
結論などはない。生きるとは戯れることだ。演戯の人、福田恆存。