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回游する日

二度寝して目覚めた時には、すでに9時半が過ぎていた。

やってしまったな、と病院に電話をする。掛かるはずの予約は9時半からだった。
3コールほど経った後、はい、東雲医院です、と穏やかな女性の声が流れる。私は電話口でさも、用事が遅れまして、という体を装った。

「お待ちいただくかもしれませんが大丈夫ですよ」

ほっとして、最後に、今から行きます、なんて口が滑ったものだから、寝起きということは筒抜けになっていただろう。ともあれ、服を着替えて、限りなく軽装で病院へと向かった。

検査結果の受け取りだけだったので、待ち時間をあわせても15分ほどの滞在で済んだ。特に異常もないとのことだったので薬を1ヶ月分だけ貰った。

病院を出た後、違う病院へ電話をした。初診の予約を入れるためだ。一週間くらい前から身体の調子が芳しくなかった。どうにも疲れやすい。朝起きて、用を足して、顔やら歯やらを洗って、寝床に戻ってくる。これだけの何ということもない動作で息切れをする。何らかの異常があるに違いない、と思っても不思議ではない。

しかし、昨夜などは駅前のアイリッシュパブへ同僚と楽しく飲みに行くなどした。健康なのか不健康なのか最早自分でもよく分からなかった。

素人診断ではあるが、ある程度病気に見当が付いている。甲状腺の何かと推測している。もし、これでなかったらおそらく精神的な何かなのかもしれない。

ただ、この甲状腺というのを診てくれる病院というのが少ない。こともあろうに県内で10数ヶ所というのだ。当然いつも行くようなところには診療科がなかった。歯医者はコンビニより多いらしいというのに。

他にも気になることはあった。幼い頃から至って普通の健康的な食生活を送っている。つもりだ。甘いものは過度に食べず、油物も得意ではない。水分も適宜取る。それなのに健診のたびにコレステロール値が正常を超えている。これも子どものころからずっとだ。

今まで何もない、いや、何も気付かなかったが、とうとう何か関係があるのかもしれなかった。

電話を掛けて初診を受けたい旨を伝えると予想通り、今月の予約はいっぱいなんです、と告げられる。皆ここに辿り着くのだろう。一番早くて何日ですか、と尋ねる。

「10月20日になります」

1ヶ月も先じゃないか、と思ったが、そこは高脂質症も専門としているらしいので、予約を取ってもらうことにした。

こうなったら診察日まであらゆる可能性を潰していこうと思う。

まずは、ほうれん草を食べる。
血液検査の結果、どうやら赤血球が巨大化しているようだ。これは葉酸やカリウムの不足が原因らしい。別にこれはほうれん草でなくてもいい、空芯菜とかブロッコリーとか枝豆とかそういったものを適宜摂ることにする。

そして、枕の高さを調整する。
ちょうど具合が悪くなった近辺、枕を新調していたことに気付いた。ストレスが溜まって古い枕を捨てたくなったのだ。
枕が合わず睡眠時無呼吸症候群になっているのかもしれない。呼吸が止まっていようが無意識に走り回っていようが、寝ている時のことは誰にも分からない。

これらを実行してもなお具合が悪いと言うのであれば、私の素人診断もあながち的外れではないと思う。

予約の電話が終わった後、家に帰らず8番のバスに乗った。8番のバスは西京に行くバスだ。このバスで向かう先もまた病院だった。

数日前、左胸に激痛が走り、自分で救急車を呼んだことがあった。運が悪いことにその日は祝日だった。その支払いをしに行かなければならなかったのだ。その時は胸部激痛症候群と貧血と診断された。具合が悪ければ近いうちにかかりつけに通うように、と医師には言われた。

進むにつれて家がまばらになり、田畑が増えた。大きな川を超えると閑静な住宅街の細い道に入り、バスは遠慮がちに道を縫った。こんなに遠いところだったのか、と見慣れない商店街を目で追った。

そういえば救急隊の人は何ヶ所かに電話を掛けていた。祝日はやはりどの病院も閉じていて、搬送先が見つかりにくいのだろう。3ヶ所か4ヶ所目で見つかったのは運が良かった。

バスに揺られて30分ほど経ったころ、住宅街を抜けて国道に出た。北天町という耳慣れない場所で降りた。Googleマップによると、国道から細い路地に入ったところにある坂をまっすぐ登ると搬送された病院に着くらしかった。

Googleマップのことはあまり信用していなかったが、知らない土地ということもあり、ナビゲートに大人しく従うことにした。

路地に入ってしばらく進むと丁字路に突き当たった。丁字路の横一文字には緩やかなカーブを描いて小川が流れていて、水中にはたっぷりと藻が棚引いていた。

Googleマップはやはり信用できないな、とナビを見るとどうやら知らず知らずのうちに本来の道から逸れていたらしい。一番信用できないのは自分の足だった。

せっかくなので小川に沿って歩いた。川といっても生活用の水路のように見えたが、魚の影をいくつか認めた。流れに逆らって尾鰭をはためかせる魚たちは健気だった。

歩いていると鉄板を溶接しただけの簡単な橋が渡してあった。橋は駐車場に繋がっていて、病院へ行く坂に抜けられるようだ。

おぼつかない足取りで橋を通り、駐車場を抜けると坂のてっぺんに大きな栗色の建物がそびえ立っていた。建物の側面には緑色の字で「中央総合病院」と書かれていた。検査結果に書かれていた病院名と文字が並んでいた。

暑いので日向を避けて坂を登った。いかにも空色という空には機嫌のいい綿菓子みたいな雲が積み重なっていた。9月とはいえ、まだ夏なのだ、と思う。隣を電動自転車で通り過ぎていく人がこの上なく羨ましかった。

坂を上がり切ったロータリーの入り口には看板が立っていた。以前出入りした入口は、急患用の南入口だったようだ。今回は正面口にある窓口へ来るように言われていた。

ガラス戸の自動ドアをふたつ抜けると、院内は異様な混み具合に包まれていた。1時間待ちのファミレスを思い浮かべた。この辺りには大きな病院は少ないだろうし、仕方ないといえば仕方ない。

総合受付で支払いに来たことを伝えると、3番窓口でお呼びしますのでお待ちください、と言われる。受付の人が指し示した指先の向こうにはいくつも窓口が並んでいた。当然どの窓口も混雑していた。老若男女の群れを掻き分けて、柱の影に安全地帯を確保する。

「369番でお待ちの方」

番号で呼ばれたかかりつけの患者が次々と横を通り去っていく。私は自分の名前が呼ばれるのを岩陰に隠れる魚のようにじっと身を潜めて待った。

「鵜飼さん、鵜飼たまきさん」

自分だけ名前で呼ばれるのは少し気恥ずかしかった。預かり金を返された後、診療代を支払った。出費は痛かったが、これも仕方のないことと割り切るしかなかった。

病院を出るころには日はさらに高く、気温も病院に入る前よりも上がっているように感じた。

動き出す前に帰りのバスの時間を検索することにした。あと4、5分で最寄りの停留所、北天町に着いてしまうらしい。走っても間に合う気はしなかったし、そもそもこんな猛暑の中を走る気もなかった。次のバスは45分後だった。

Googleマップ上では病院からバス停の間に図書館があったはずだ。私はそこで時間を潰すことに決めた。

坂を下って、駐車場を抜け、小川に掛かった小さな橋を渡る。川を覗いてみたが魚たちはもういなかった。

橋を渡り終えて右に曲がるとぽつぽつと遊具が配置された児童公園の奥に「返却ポストはこちら」の看板を目に留めた。

市内には区ごとにひとつ図書館があった。大きさはまちまちで、小説が多い館、地域資料の多い館、児童書の多い館、と何となくそれぞれ個性を持っていた。

この図書館はまず外観が珍しかった。
小さな煉瓦造りで入口には蔓薔薇のアーチが掛かっている。小ぢんまりとした洋館のような佇まいだった。

中に入ってみるとアンティーク調の雰囲気をほんのり漂わせたごく普通の小さな図書館だった。意外と利用者は多く、年齢層も広かった。

特に目的もなかったので、のんびり歩きながら並べてある本を眺めて回る。現代小説が多そうだ。しかし、専門書も偏りなく並べてある。乳白色のレースのカーテンから差し込む陽光は淡く揺れて心地よかった。何となく利用者が多い理由が分かった気がした。

ふと窓際に日本の随筆集が並んでいるのに気付いた。日本の随筆集は、文筆家のオムニバス式の短編集で、一巻ごとにテーマが設定されている。私はこのシリーズの「海」を持っていた。珈琲、骨董、星座、古書。手当たり次第に開いては流し読んでみた。

蒐集、を手に取った時、井伏鱒二の小説のことを思い出した。そうだ、蒐集品だか骨董品だかの小説を前々から読みたいと思っていたのだった。しかし、肝心のタイトルが思い出せない。

私は検索機を探した。大抵は館内の中心か入口の近くにあるはずだ。経験則を頼りに彷徨った。開け放された手動の入口と、自動ドアの間には、自習室にあるような机がひとつ、肩身狭そうに置いてあった。その机の上にはデスクトップと板チョコくらいのサイズのキーボードが置いてあった。

こんなところに。椅子ひとつ分の隙間を縫って検索機の前に座る。キーのひとつひとつは採血の後に貼る絆創膏ーーインジェクションパッドというらしいーーよりも小さい。5本指で打つには勝手が悪かった。

仕方なく人差し指でキーを押す。i、b、u、s、e……、タイトルはやはり思い出せない。井伏鱒二、だけで検索を掛ける。結果は531件。時間を見るとバスが来るまであと20分を切っていた。図書館からバス停までは5分もあれば着くだろうが、さすがに1件ずつ目を通す時間は無かった。

確か、何とか堂主人、ではなかっただろうか。戻ろうと左上の「く」の字をクリックすると、一面が淡灰色一色になる。画面には泣きべそをかいたファイルのようなキャラクターも表示された。

「お探しのページを表示できません」

ページ内の戻るボタンを使わなければならなかったらしい。更新のマークにポインターを移動させ、かち、と一度押すとさっきまで表示されていた井伏鱒二の検索結果に戻った。

マウスの中心にあるホイールを中指で転がしてページの一番下までスクロールする。左下には「戻る」と書かれた紫色の四角が控えめに、しかし、白い空間に囲まれてくっきりと露わに晒されている。どことなく無防備なその四角に触れると、空白の検索窓に戻ってきた。今度はそこへ、井伏鱒二(スペース)主人、と打ち込んだ。

検索結果の先頭には「珍品堂主人」が現れた。ああ、そんなタイトルだった気がする。アンバランスにテキストが配置された珍品堂主人の書影をクリックすると、ちょうどこの図書館に所蔵されていた。文庫、とあったので大体の配置もすぐ見当がついた。

検索画面を初めに戻して館内に戻る。カウンターの前を通り過ぎて突き当たりの角に文庫の棚はあった。指先で、あ、から辿って、い、に着く。ちょうど隣の本が借りられていたからか珍品堂主人は右隣に気怠げに傾いていた。本の頭に指を掛けて抜き取ると、迷いなくカウンターに持って行った。

カウンターの女性の名札には、司書、とあった。貸出業務は司書でなくても可能だった記憶がある。司書、学芸員、それらには何となく薄給なイメージがついて回った。いや、これは偏見なのかもしれない。そう思いながらも視線は彼女の飾り気のない左手に吸い寄せられていた。

本を借り終わって館内の涼しさに後ろ髪を引かれながら、炎天下に足を踏み入れた。隣の小さな公園には誰もおらず、ただ2台のブランコが風にゆらゆらと揺蕩っていた。

日向に出てみると熱波に一瞬目が眩んだ。昨日は少し飲み過ぎたのかもしれない。心なしか胃の調子が良くないように思えた。思えば今日は朝から病院三昧で何も口にしていない。公園の時計を見ると短針はもうすぐ12に差し掛かろうとしていた。

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