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親子2代、小学校の「演劇クラブ」で地獄を見た話

今から35年前…
私が小学4年~6年生の頃の話です。

小学4年になると、クラブ活動が始まりました。
陸上、家庭科、サッカー、などなど。

当時から文章を書くのが好きだった私は、「新聞クラブ」に入ろうと思っていました。
しかし、当時の担任の先生に、

「多恵ちゃん、演劇クラブとかどうよ?」

と、軽く勧められました。

当時、演劇クラブは創部2年目。
初年度の部員は3人ほどだったと思います。

演劇は嫌いではなかったので、私は先生の勧めるまま、演劇クラブに入部しました。

演劇クラブの顧問は、当時新卒2年目の若い男の先生でした。
ちなみに、演劇クラブを創設したのもこの先生です。
仮にS先生、とします。

私が入部した時、部員は10人でした。

当時小学校では、さまざまな「イベント」がありました。
七夕まつり、学芸会、6年生を送る会。
演劇部は、イベントには必ず参加していました。

劇の内容は、啓発モノが多かったですね。
反戦や反差別をテーマにしたような。

小学校の演劇クラブ、といっても…
その中身は、小学生レベルではありませんでした。

顧問のS先生は、「スパルタ鬼監督」でした。
練習では、怒号が飛ぶ飛ぶ。

「感情がこもってない!!」

「そこ、『間」や!『間』がどんだけ大事かわかってへん!」

「○○(役名)の気持ちがわかってへん、なんでそんな演技になるねん!!」

あげくのはてに、

「もうやめてまえ!!!!!!」

と、スリッパが舞台に飛んでくることも。

朝練、昼休み、放課後…
正規のクラブ活動以外の時間も、練習をしていました。

その結果。
劇の完成度は、かなり高かったと思います。

そして、時は流れ…
私の息子が、同じ小学校に通うようになりました。

4年生になった時、彼は

「演劇部に入る」

と言いました。

当時S先生は、その小学校にはいませんでした。
教育委員会の方に行っていたのかな?

ですが、S先生は、練習の時にはわざわざ小学校に来ていたようです。
鬼監督として。

息子は、4年生の時には大した役はもらえませんでした。
しかし、転機は演劇部2年目、5年生の時に訪れました。

学芸会で、私がかつて演劇部に所属していた時の「劇」が、再演されることに決まりました。
詳しくは言えませんが、上演時間40分の感動超大作です。

「主役、取ってこい」

私は息子に言いました。

私はその劇では、端役でした。
自分が果たせなかった夢を…
私は息子に託したのです。

当時、どちらかといえば引っ込み思案だった息子ですが…
無事、主役をもぎ取りました。

そこから、彼の地獄が始まったのです。

主役ですから、まずやることが多い。
セリフを覚えるのも、大変です。
さらに、演技も…。

練習は、毎日行われていました。
暗くなるまで、練習が続けられていました。

息子は毎日、青い顔で帰宅しました。
時には、プレッシャーで吐くこともありました。

S先生にしごかれているのだろう…
その鬼監督ぶりを知っている私は、「がんばれ」としか言えませんでした。

そして、本番の日を迎えました。

セリフを間違えたらどうしよう、ちゃんと演技できるんやろか…
内部事情を知っているだけに、不安は尽きませんでした。

しかし息子は、40分、演じ切りました。
それはもう、小学校の演劇部というよりは…
「劇団」の舞台を見ているようでした。

終盤、観客席のあちこちから、鼻水をすする音が聞こえていました。
緞帳(どんちょう)が降りると、ハンカチで目を押さえる人、多数。

「ようやった!!!」

心の底から、嬉しく思いました。

それまで引っ込み思案だった息子は、この劇をきっかけに変わりました。
積極的になったのです。

「まさか、多恵の息子が主役やるようになるとはなぁ」

公演後…
あいさつに行くと、先生は懐かしそうに言いました。

「まぁでも、あいつ(息子)は、ようがんばった。根性あったわ」

そう言っていただけて、本当に嬉しかったです。
私も、演劇部の「地獄」を知っているだけに。

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