【親子絶縁】毒親からの自立と公民権運動【私には夢がある】
I have a dream!
「私には夢がある」と25万人近い聴衆に演説を行ったのは1963年のことだ。
演説したのはキング牧師ことマーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士である。
彼は皮膚の色や出自に関係なく、すべての人に自由と平等を求めた。
いわゆる「公民権運動」である。
毒親からの解放が「公民権運動」と似ていることに、ふと気づいた。
「毒親」の由来は、スーザンフォワード著『毒になる親』だ。
毒親の定義はとても難しい。
身体的だけではなく、精神的に虐待する親もいて、本人自体も虐待したという自覚がない親もいる。
ただ子どもをみれば毒親かどうかはすぐにわかる。
「毒親サバイバー」と呼ばれる毒親に育てられてきた子どもの胸中は、まさにこの言葉がぴったりくるのではないか。
I have a dream!
「私には夢がある」
「食うに食なく、働くに職なく」といわれた終戦直後は、みんな生きていくことに必死だった。
ところが、経済的に発展し、飽食の時代になると、欲求が変化した。
マズローの欲求5段階説でいうと「生理」→「安全」が保障され、「社会」→「承認」→「自己実現」となる。
生きていくうえで最低限必要な食べ物や安全を獲得すると、次第に集団に属す社会的欲求や、他者から認められたいという承認欲求が出てくる。
親は自分たちがしてきたような苦労は子どもにはさせたくない。
自分の学歴よりもさらに高い学歴を望んだ。
当然の親心であり、より専門的な知識をつけることを願ったのだ。
だが最後に進路を決定するのは、親ではなく子どもである。
至極当然のことだ。
ただなかには、子どもの意思を無視して親が進路を決めてしまうことがある。
精神的な虐待といっても過言ではない。
子どもには子どもの特性があり、親が医者だからといって子どもも医者になりたいわけではない。
ここが非常に難しい。
子を想う親心が微妙にズレている。
親がなまじお金を持っている場合、ややこしいことになる。
例えば、たくさんの習い事をさせることは、教育熱心であり、子どもへの虐待に見えない。
たくさんの習い事をすれば、必然的に他のことをする時間と体力はなくなる。
習い事を否定しているわけではない。
草むらで虫取りをすることは習い事と同等以上の学びや価値があるということだ。
勉強をしたい子どももいれば、虫取りや秘密基地をつくることが好きな子どももいる。
大切なことは、それらを決めるのは子ども本人で親ではないということ。
人生は一度きり。
だからこそ、たとえ失敗したとしても子ども本人が意思決定し、やってみることは無限の価値と可能性があるのだ。
毒親サバイバーたちは、自分が本当にしたかったことをしてこなかったのではないか。
私もその一人である。
もっと恐ろしいのは、親は「良かれ」と思い、子どもの意思を無視して進路を決めているということだ。
悪意があり、子どもを苦しめようなんて心底思っていない。
あくまで善意でやっている。
だから親が「自分が毒親である」という自覚がないのである。
公民権運動ではないが、奴隷貿易も同様だったのかもしれない。
白人たちはアフリカで食うか食わずの生活を送るより、奴隷として働くことで最低限の生活ができると考えたのだろうか。
はたまた単に労働力としてしか見ていなかったのだろうか。
どちらにしても共通していえることは、子どもや黒人奴隷の意思は無視されていたということ。
毒親サバイバーは言い方は悪いが、親の奴隷である。
もちろん親本人にその自覚はない。
だからこそ「私には夢がある」と自由と平等、個人の尊重を求めて、立ち上がる必要がある。
まさに現代版「公民権運動」なのだ。
ただ何も命をかけて、たくさんの聴衆の前で演説する必要はない。
現在、周りにいる人たちの考えは親とは違い、個人を尊重してくれるだろう。
もう親に気兼ねすることはない。
声に出して宣言するだけでいいのだ。
I have a dream!
「私には夢がある」と。