生活のためのマルクス/ マルクス『資本論』覚書き part 6
マルクスの『資本論』、ちくま学芸文庫版の下巻も残りあと200ページ。病院の待合時間に読み進める。
下巻の前半はジャーナリストとしてのマルクスの本領発揮の感さえある、19世紀後半当時の悲惨な労働環境のルポルタージュが続く。そして、資本の蓄積へと論が展開する。
21世紀の現在、一事業所の責任者として経営の一端を担っている身からすると、資本主義の中で仕事をする上ではあまりにも当然、あるいは前提条件であり、ことさら騒ぐ必要もないと思われる事象に関する記述もある。だが、資本主義の構造をメタレベルで改めて認識する、という行為からの学びは多い。また19世紀の時点で、すでに現在問題になっているような現象を予見していた、という先見性にも驚かされる。
マルクスによれば、商品の価値は不変資本の価値と、労働が生み出す価値の合計からなる。不変資本とは、その商品の製造に必要な原材料や設備など、労働以外の部分を指す。さてマルクスが掲げる中心的な問題は労働者が資本家に「搾取」されているということなのだが、搾取は労働が生み出す価値において発生する。どういうことか。労働者は労働をし、ある一定の価値を生み出す。一方で、労働者は給与をもらう。しかしこの給与が、労働者が生み出した価値とイコールになることは決してない。頑張って営業活動をし、年間一億円の利益を生み出したからと言って、年収が一億円になるということはありえない。労働者が手にする給与は、労働者が労働力を再生産できる程度、つまり労働者が毎日きちんと職場に行けるような生活を可能にする程度のものでしかない。マルクスは、労働者が生み出した価値と、労働者が手にする価値のギャップを剰余価値と呼んだ。そして、資本家が自ら労働することなく剰余価値を手にすることを搾取と呼んだ。
資本家は剰余価値を手にする。しかし、そのすべてを自分の贅沢のために使うわけではない。剰余価値の一部はたしかに資本家による消費に回るが、残りの部分は例えば設備投資や、あるいは新たな労働力の確保に回る。これにより、より大規模な生産活動の実現が可能となり、結果的により多くの剰余価値を生み出す体制が整う。剰余価値を、より多くの剰余価値を生み出すための投資に回すことにより、資本の限りない増大を可能にするシステムが完成するのだ。
マルクスは、テクノロジーの発展にも言及する。人工知能の発達が人間から職業を奪う、ということが一時騒がれたが、マルクスも技術の発達により労働者が過剰になる、ということを指摘している。そして、資本家のもとで特定の技能に特化した仕事しかしていなかった労働者は、そのあまりにも専門的な技能以外に売るものがない、つまり市場価値がない者としてさまようことになる、ということも。
マルクスの議論は、現代社会を批判的に分析し、労働者としての自らの立ち位置を再認識する、という点において多くの示唆に富んでいる。たとえば経営者マインドを持って働くことの重要性がしばしば話題になるが、会社から給与をもらっている限り、マルクスが言うところの「搾取」をされ続ける一労働者に過ぎない。搾取される側から脱出するには、剰余価値を吸い取り、その上で自分が消費する貨幣の量を自ら決められる立場に立つしかない。資本主義のその端緒からの分析を追認することで、資本体制にあまりにも埋没した日常から距離を取った視点を手にすることができる。それは一つの見識である。
また、これからの社会のあり方を大局的に考える際に、『資本論』が提示した構造を念頭に置いておくことはやはり重要である。心身ともに健康な者たちが繰り広げるタフでドライな競争原理を社会設計の基盤においたとき、その社会は早晩崩壊する。自分自身が支援される側、弱者の側にいつでも立ちうるのだという現実への想像力を働かせることもまた大切なのではないか。ジャーナリストであるマルクスが開示する搾取され続ける労働者たちの悲惨は、十分な現代性を持っている。
一方で、自分の不甲斐なさから目を背けるためにマルクスを利用することは避けたい。日常生活に不満がある。その原因は、自分自身の覚悟が足りないからだと言うことも薄々わかっている。しかし、その事実を認めたくない。だから、労働者である自分を執拗に搾取する資本家、あるいは会社の上層部がすべて悪いんだ、と信じ込もうとする。マルクスを言い訳にする。それでは何も前進しない。自分の足で立てるのであれば自分の足で立つ、という気概は大前提だ。
いまを生きる私の立場からすると、マルクスの議論云々をいじるほど暇ではない。自分と自分の家族を守るために、この世界の現実を生きていかなければならない。そのために、マルクスが有用なのであればそれを吸収する。ハーバード大学のリーダーシップ学の権威、ハイフェッツ教授が「バルコニーに駆け上がる」と言っている。ダンスホールで多くの人がひしめき合いながら踊っている。そんな時にリーダーは、バルコニーに上がり、上からそのホールを見下ろす。全体像を俯瞰することによって、いま何が起きているのかがよくわかる。その上で、再びホールに降りて踊り続ける。資本主義の中で生きざるを得ない現代の日本人として、マルクスはひとつのバルコニーだ。時々は大局を見わたす。しかし結局はホールに降り立って、人混みのなかで汗をかきながら踊り続けない限りは生活していけない。
現在読んでいる『資本論』第一部の範疇を超えるのかもしれないが、マルクスに関する文献を読んでいて非常に得心したことの一つが、世の中は商品だけでできているのではない、というあまりにも当たり前のことだ。できるだけ多くの貨幣を集めて商品を購入することに幸福があるのではない。貨幣や商品は資本主義のシステムによって生み出された人工物でしかない。日向ぼっこをするための太陽の光に値段はついていない。逆に、太陽の光に値段をつけて商品化しようとするのが、資本主義の運動だとも言える。資本主義のシステムの外側にある価値を見い出し、享受する態度を持っていたい。
資本主義の中で生きていくという現実がある。マルクスを読んでいると、資本主義というゲームのルールを可能な限り理解し、シンプルで構わないから戦略を立て、そしてプレイしていこうという勇気をもらえる。そのために必要なのは、具体的な情報と分析だ。搾取される剰余価値を減らすためにはどのようなマネジメントが有効なのか、労働以外の手段で貨幣を入手するためにはどのような方法があるのか。内田樹氏が、レヴィ・ストロースは原稿を書く前にマルクスの著作の一節を読み、頭に「一発キメる」と書いていた。
たしかにマルクスは、脳を活性化させる。