回復 考
回復の意味をみてみよう。たとえばコトバンクでは、以下のように定義されている。
要するに回復とは、一度悪くなったものが再び良くなるということであり、しかもその良くなるというのは、元通りになるということだ。しかし、わたしはこの定義に少し疑念を持った。完璧に元通りになることなどあるのだろうか?
どうしてそのようなことを思いついたかというと、きっかけは森村修(2020)『ケアの形而上学』という本を読んだことである。そこではカトリーヌ・マラブーというフランスの哲学者を引用しながら「〈こころ=脳の傷〉」(p. 47)、つまり、暴力やハラスメントを受けた人物が負うトラウマやPTSDといった傷は、単に「こころ」だけではなく、目に見えないレベルで物理的に「脳」にまで及ぶという指摘がなされていた。
「こころ」だけではなく「脳」に傷を負うというのは、トラウマ的な強烈なストレスに晒された場合、微小なものであっても脳は外傷を負うという意味である。虐待や戦争といった体験を持つ人物は、物理的に脳を損傷した患者や、脳に障害を持つ人物と似たような行動を示すという。
一度強烈なトラウマ体験をしてしまった人にとって、上の定義での「回復」は可能なのだろうか。それがわたしの問いであった。一度トラウマを経験した人が、「回復」し、まるでトラウマの経験がなかったかのように振る舞うようになることなど、あるのだろうか?そして、それは果たしてよいことなのだろうか?
考えてみれば、ひどいやけどを負ったり切開手術をしたりすれば、その痕はケロイドになって残る。小さい切り傷やかすり傷だって、一見すれば怪我などなかったかのように、忘れたころには綺麗になっているが、それは決して元通りになったわけではない。表皮は新たに入れ替わったものなのであって、元通りになっているわけではないのである。また、その傷がどれだけ小さいものだったとしても、怪我をしたシチュエーションがショッキングなものであれば、怪我が帯びる意味、痛みの種類、傷の深さは変わってくる。怪我の記憶も含めれば、ますます「元通り」が回復などとは言えなくなってくる。
森村は、マラブーを通じ、「傷」という経験をきっかけに、こころとからだは必ずしも峻別できるわけではないということを主張したかったのだろう。ここで「傷」という言葉が、単なる外傷を意味するよりも、こころの傷も含めたより広義に捉えられていることに気づく。そして、人はだれしも、こころにであれからだにであれ、深かれ浅かれ、傷を負って生きているのだ、という事実にまで想像力は及ぶ。
無論、傷は負わないに越したことはない。あとになって「あれは自分にとって良い経験だった」と言うことはできるかもしれないが、だからといって、わたしもあなたも積極的に傷ついていくべきだ、とはならないだろう。かといって、傷を負っていない状態=良いというのも問題含みな考え方である。
傷を負っていない状態が良いのであれば、傷を負った人は良くない、もっと言うと悪いのだろうか?もし、その考えを受け入れてしまえば、さらに進んで、「傷を負うな」とか、「傷を負ってしまえば終わりだ」とか、「負ったとしても、負っていないように振る舞うべきだ」と、思考はスライドし、傷や、傷を負った者がスティグマ化していく可能性がある。しかし、一度も傷を負っていない者はいないし、負いたくて傷を負う人などほとんどいないだろう。むしろ、予期せぬ時に望まぬ形で経験するからこそ、その経験は傷と呼ばれるのではないか。
逆説的だが、病んだ者がいない世界のほうが「病んだ世界」ではなかろうか?不安を感じるや否やソーマを服用し安定した情緒を保つ生活は、すばらしい新世界と言えるだろうか?そうではなく、病んでもなお生き直せる世界こそ、わたしたちが望む世界ではないかだろうか。これまで誰もが傷ついてきたという経験を持ち、これから誰もが傷つく可能性を孕むなかで、傷ついたとしても生き直せるんだと思える世界の方が、よっぽど希望に満ちた世界ではないだろうか。
ここにおいて、回復の定義を見直すときがきた。「もとの状態に戻す」とは、傷の経験を忘れることである。そしてそれは、自分にとっても他者にとっても残酷なことである。むしろ、傷の経験を持ちつつ、それと共に生きることこそが、現実に沿っており、健全であるだろう。
回復に新たな意味を付与する(まさに大江健三郎が『恢復する家族』のなかで用いた「恢復」の意味で)か、別の言葉を使うのがいいのかもしれない。が、それは今後に残された課題である。
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