朶野

ただのです 哲学の大学院生です

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最近の記事

哲学カフェをやりたがる人間は単に参加者の素人を支配したいだけ

    • 「小僧の神様」とは誰か?

      いまだに後悔していることがある。 とある日、とある事件が起こった。人の尊厳が傷つけられるような事件が。まるで自分が傷つけられたかのように感じ、とてもショックで、悲しかった。わたしはその場に居合わせていたが、その時はなにも言えなかった。傷つけた人に、「あなたのその発言は間違っています」とは言えなかった。わたしよりよっぽど年を取っていたし、偉い人だった。それに、同じくらいの年齢の同じくらい偉い人たちが、誰一人その人を諫めなかったことも傷つけられた人にも、知らない人だったし、どんな

      • 友人にわたしの言動すべてをアルファベット四文字の特性で分類されるのだとしたら、わたしはその人を友人と呼ぶことができなくなる。

        • 目を見て話せ

          いい歳した大人がインターネットで言い争いをしている姿は見るに堪えない。リプライだの、エアリプだの、引用リツイートだの、ほとほと呆れる。ビジネスでそんなことをしているのなら、プライドもへったくれもなくて恥ずかしいし、本気でやりあっているのだとしたら、人として小さすぎて恥ずかしい。 「僕は○○さんの友人です。しかし言わせてください」と引用リツイート。いや、友達なんだったら引リツしてないで会って話せよ。会わないとしても、LINEか手紙で個人的に言えよ。友達なんだろ。 しかもこう

        哲学カフェをやりたがる人間は単に参加者の素人を支配したいだけ

        • 「小僧の神様」とは誰か?

        • 友人にわたしの言動すべてをアルファベット四文字の特性で分類されるのだとしたら、わたしはその人を友人と呼ぶことができなくなる。

        • 目を見て話せ

          unforgivable forgiveness

          排除が至る所で起こっている。宗教、人種、病気など、もはや理由などなんでもいい、あたかも排除それ自体が目的となっているようだ。 しかしその時起こっているのは、「許せない対象の排除」ではなく、「それを許せない自分の排除」なのではないだろうか。「許せない対象」がいなくなれば、「それを許せない自分」もいなくなる。綺麗な自分でいられる。 「自分を許そう」とはよく聞く話であり、もはや陳腐ですらある。しかし、そんなに簡単に自分を許せるなら苦労することはないだろう。ロシュフコーの「死を軽

          unforgivable forgiveness

          医者は病人しか治せない

          医者は病人しか治せない

          女にエロいと思われたら誇らしいけど、男にエロいと思われてもキモいだけ

          女にエロいと思われたら誇らしいけど、男にエロいと思われてもキモいだけ

          ヤツが帰ってきた

          憎きヤツが帰ってきた。お呼びでないが、やってこないとそれはそれで不安になるヤツが。痛みとともに、眠気とともに、血液とともに。 以前もどこかで書いたが、わたしは5年ほど前から強力な武器を携えている。そのおかげでヤツはある程度コントロール可能になり、なりをひそめるようになった。負う痛みは薬を飲まなくても済むほど軽減し、28日周期で襲ってくることもわかり、闘いの期間も7日から3日へ短縮し、襲ってくる量も一番多い日でもふつうの日用ナプキン1日1枚で収まるほどになった。女性であればこ

          ヤツが帰ってきた

          回復 考

          回復の意味をみてみよう。たとえばコトバンクでは、以下のように定義されている。 要するに回復とは、一度悪くなったものが再び良くなるということであり、しかもその良くなるというのは、元通りになるということだ。しかし、わたしはこの定義に少し疑念を持った。完璧に元通りになることなどあるのだろうか? どうしてそのようなことを思いついたかというと、きっかけは森村修(2020)『ケアの形而上学』という本を読んだことである。そこではカトリーヌ・マラブーというフランスの哲学者を引用しながら「

          なぜ言葉を綴るのか、なぜ絵を描くのか、なぜ声を出すのか

          「なぜブログやpixiv やnote で自分の作品を投稿するのかわからない」と言われた。これを言われてわたしはショックだったし、相手に対して少し、いや、相当がっかりした。 なぜがっかりしたのかは判然としないが、とにかく悲しい気持ちになった。今回はこの気持ちについて考えようとおもう。 なぜわたしはがっかりしたのだろうか? そして、なぜこのことを今まさにnote に書いているのだろうか? 褒められたいからだろうか?認められたいからだろうか?共感あるいは反感を引き起こしてバズりた

          なぜ言葉を綴るのか、なぜ絵を描くのか、なぜ声を出すのか

          「歴史的な制約」は、むしろ今生きている我々にこそ課されているのである。

          「歴史的な制約」は、むしろ今生きている我々にこそ課されているのである。

          老害 考

          悪意や善意に関係なく、他人の足を引っ張ることに余念がない人間が少なくない。足を引っ張る具体的な方法としては、「それは難しいよ」「それは厳しいんじゃないか」「それはやめといたほうがいい(こっちにしたら?)」等の声かけをしてくることだ。それ以上のことも、それ以下のこともしてこない。 「私は責任を持てないので適当なことを言いますが」という丁寧な前置きをしてから出てくるのがこの程度の言葉なのだ。本当にただ適当なことであれば慈善活動として老人の戯言を多少は聞き流してやってもいいが、挙

          「○○主義者」の寂しさ

           ○○主義者というのが苦手だ。「自分は○○主義者です」と名乗る人はうさんくさく感じるし、「お前は○○主義者だ」と面と向かって対話相手に言うのはもってのほかである。  「○○主義者」を自称すること、あるいは他人を「○○主義者だ」と断定することには一体どんな意味があるのだろうか。とにかく、わたしはこのことを考えるたびに、えもいわれぬ寂しさを感じるのである。  「○○主義者」の寂しさは、その空虚さからくる。自分を「○○主義者」と名乗ることは、自分のアイデンティティを空疎な概念に明

          「○○主義者」の寂しさ

          θαυμάζειν=Angst, Nausée

          θαυμάζειν=Angst, Nausée

          のりたまの嬉しい瞬間 はじめのひと振りかけで、のりがいっぱいでてきたとき

          のりたまの嬉しい瞬間 はじめのひと振りかけで、のりがいっぱいでてきたとき

          大江健三郎の文章には、どこか呑気なところがある。かれの呑気は、その乗り物が自動車でなく自転車であることからくるのではないだろうか。ゆっくり確実にペダルを踏み車輪を転がし、坂道に苦労しながら、それでも前へ進んでいくかんじなど、イメージぴったりである。

          大江健三郎の文章には、どこか呑気なところがある。かれの呑気は、その乗り物が自動車でなく自転車であることからくるのではないだろうか。ゆっくり確実にペダルを踏み車輪を転がし、坂道に苦労しながら、それでも前へ進んでいくかんじなど、イメージぴったりである。