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【紀行文】南北朝の非業の伝説が静かに息づく 戦国の山城 水窪の高根城
遠州の奥山、信州との境 水窪へ
天竜川沿いの古代の遺跡を巡り、塩の道・秋葉街道を北上する旅。
天竜区の秋葉神社を後にし、私たちは北上し、水窪方面に向かった。
前回までの記事はこちら。
道は細く、狭く、うねっていた。時折、採石業者の大きな工場や作業場があった。
今や豊かな森林があり、それを守る知恵はあれども、実際に木を伐り、守る人が少なくなっている。先達が数百年先を見越して植えた苗も、人の手が入らぬままいたずらに巨大化し、またはこうした大規模な開発により乱伐されているようだ。一目で壊された自然が容易に戻らないことが分かる。
とはいえ、こうした悲観的な話ばかりでもなく、少しずつ若い人が林業を志し、山と共に生きる生活を選択することもあるという。
こうした自然破壊に対して個人的に心を痛めるのであるが、声を上げるというところまで行かないのは、やはりここに生きる人の暮らしの一つであること、そしてこの採掘の間接的な利益を、私もどこかで受けつつ生活しているという自覚からからくるものであろう。
よく整備された戦国期の山城 高根城
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水窪の町は遠かった。
カーナビで距離感は分かるはずなのだが、細くうねる道がどこまでも続き、一向に先に進まない苛立ちを覚え、それが幾度となく繰り返されたころようやく水窪の表示が見えてきた。人家が現れ、そして公共施設やスタンドが見えてくる。
水窪橋の交差点を右折し、天竜川を渡り、水窪の総合体育館の側を戻るように山に向かって走っていくと、やがて高根城の赤い旗が見え、駐車場がある。ここは高根城公園として整備されており、周遊コースも一時間ほどで手ごろであったが、時間も限られているので、ピストンで高根城の復元遺構まで歩くことにした。
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長い石段を登る。ぶわっと汗が吹き出し、たちまち下着が濡れた。息が荒くなり、これは本格的な登山だなと思った頃、見晴らしの良い場所に出た。見上げると本曲輪の門や土塁が見える。
見晴らしの先には、水窪の町とその奥に続いていく天竜川の尾が見えた。 戦国期に確かにここは要衝であったのだろう。
この高根城には、南北朝のころ後醍醐天皇の孫をかくまったという伝説がある。井伊谷で生涯を閉じた後醍醐天皇の子、宗良親王。この遺児が由機良親王であり、天皇の地を引く子をこの地域の豪族がお守りするために築城したというものである。その実在は、疑問視されるところもあるようだが、山奥にはこうした落とし子伝説などが似合う。それが正しいかどうかはともかく、この地域では真実として伝えられてきたのだろうと思う。それゆえに、ここ住む者にとっては、誇らしい場所なのだ。
一陣の風が、私の身を包み、火照った体を癒してくれた。大手口から本曲輪に入ろう。
大手門近くに解説看板があった。土塀が復元されているが、遺構としては柱の跡しかなく、そこから先は想像の入った復元のようだ。土塀や主殿、そして約8mの高さを誇る井楼櫓が復元整備されていた。
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曲輪は、基本的には礎石や穴から推定して復元したもののようだ
主殿は稲荷神社になっており、「月さえて 昔を偲ぶ 高根城」の句が正面に掲げられていた。少し寂しい伝説のある地にふさわしい寂寥感のある句だと思った。
来訪者ノートが置いてあり、めくるとかなりの人が訪れているようだった。私も記念に名前と住所を記した。
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同行した学芸員によれば、復元された遺構はかなり想像が入っているようで、正確さに欠けるのではないかと言うような指摘があった。
しかし、山城としての遺構が素人目にも分かりやすい形で整備された高根城は、この地域の観光資源となるものだ。
きっとそうした要請もあったのであろう。本曲輪、土塀、井楼櫓、土塁、そして二の曲輪、虎口、掘割、そして三の曲輪など一通りの整備がされており、無料で見られるとは思えない場所だ。
我々の他には一人見学者がいるだけであり、その方も熱心に解説や遺構をのぞき込んでいた。私たちも曲輪を一通りめぐり歩き堪能した。
静かな山城に眠る戦いの記憶
夏の暑さが染入るような、緑深い静かな山城。
時折吹く風が心地よく、平和な気分となるのだが、この山城は実は「戦う城」だ。この山城の掘割や土塁の造りこみ、大きさを見ると、緊迫感を持って城を造っていたことがわかる。敵が攻めてくることを前提にし、戦うための山城だ。事実ここは戦いの場となり、血が流れた。
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芭蕉の「夏草や 兵どもが夢のあと」の句を思い出した。
このような山間部で暮らす人びとは、日常のいさかいはあるにせよ、大規模な戦闘とは本来無縁であったはずだ。しかし、古来の道は、生活物資だけではなく、兵糧、兵器、軍馬を運ぶ道となり、戦いの火をこの地にももたらした。
そういえば、水窪に至る道の途中にこの地域に伝わる民俗文化をPRする大きな看板があった。山間部で田んぼが作りにくい場所であるが、田植えの神事が今も伝わっているようだ。
先日聞いた浜松市の館長の話では、これらの芸能は秘祭ではあるが、正月の雪降る山奥の中に寒さをこらえて、学術調査として見に行ったことがあるそうだ。
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そうした厳しい中で行われる祭である。祭は神々を楽しませる行事が大本であると思うが、一方で自ら自然に対して自己犠牲を持って臨むことで、狩猟採集的な性格をも持つ神々の許しを得るのかもしれない。
ここに生きる人たちの本来は、こうした自然に対して自己犠牲を厭わない、寡黙な人々であったと思うのだ。
しかし、外部から流入する時代のうねりは、そうした静かな暮らしをかき乱し、そして去っていった。
「諸行無常」という言葉が胸中をよぎった。この高根城の頂で、天竜川を見下ろしながらそう思った。
次回は、いよいよ遠州と信州の交点、青崩峠に登ります
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