【紀行文】中将姫伝説の二上山と當麻寺
早朝は、神武天皇の眠る橿原神宮へ
ホテルは、橿原駅の近くにとった。
一日目は、やはり疲れていたのか、気が付くとベッドで倒れこむように寝ていたようだ。朝風呂に浸かり、時間があったので近くの橿原神宮を散歩することにした。
橿原神宮がお祭りするのは、神武天皇とその后「媛蹈韛五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后」。
畝傍山のふもとに建国の英雄である神武天皇が眠るとされており、ある意味もっとも古い神社ともいえるのだが、創建自体は明治23年とある。
橿原は建国の地とされる。畝傍山を取り巻くように橿原の市街地や道路があるが、畝傍山とそのふもとの神武天皇陵、橿原神社一帯はうっそうと茂った森のようである。
軽い気持ちで出かけた散歩だったが、第一鳥居を潜り本殿でお参りをして北の鳥居を抜けて帰ってくるだけで、1時間近くかかってしまった。
神武天皇の遺徳をたたえるだけの荘厳で広大な神社である。
中将姫伝説がある當麻寺とその向こうにある二上山へ
民俗学者であり小説家であり、そして歌人であった折口信夫(釈超空)は、膨大な作品や論文を残している。
ただ小説家としては、「死者の書」が唯一といっていいほどの作品だ。しかしこの作品はとてつもない奥行をもったものであり、昨年末以来私の中でずっと燻っている。
當麻曼陀羅と曼陀羅厨子
中将姫が一夜で織り上げたとされる蓮糸の曼荼羅(根本曼荼羅)は、現在は奈良国立博物館に収蔵されているらしい。
国宝である。(文化財データベース)
もっとも伝承では、蓮糸であるが実際は絹糸であり、また舶来品の可能性も指摘されているが、それは置いておくとして、重要なことは、この国宝により紡がれてきた信仰、そしてこの曼荼羅によって生み出された写本や演劇、文芸品などがあることである。
この本堂で現在みられるのは、第2回転写の文亀本と呼ばれる後代に転写されたものだ。といっても当時の最大・最高の技術が用いられたはずであり、その価値も相当である(重要文化財)
曼荼羅(この字もいろいろな字がある)の意味自体は、高度な理論や宗教上の意味があるのだろうが、機能としては言葉がわからない人への布教であると思う。當麻寺の人に聞いたが、当時この曼荼羅は裏打ちがない形で吊られており、本堂の裏手から差し込む日の光が透けて光り輝くようになっていたと聞いている。
まさに極楽浄土を見せる映画スクリーンのような役割を果たしていたのであろう。
中将姫ご縁日 練供養会式では、観音様の仮面をつけ練り歩く様が演じられるとのことである。民衆芸能的な息吹がある。
お寺の方から面白い話を聞いた。昔、當麻氏の氏寺だったころは、下の写真の本堂は、メインではなく、手前の女性がいるところ(金堂)とその対面の講堂が仏像が安置されている「本堂」だったそうだ。
しかし、當麻氏の氏寺としての性格が薄れ、中将姫の當麻曼荼羅もうでが盛んになり、現在の本堂が正対する形になった。ちょうど90度角度が変わったわけだ。
確かにこの金堂の裏手に伸びる道を挟むように、東西に塔がある。こちらが本来の道だったのだ。
信仰の力、中将姫伝説が今に語り伝えられる物語の強さ、それらが物理的に見える稀有な事例だと思う。
この日、あいにくの曇りだったが、本堂の向こうにくっきりと二上山が見えた。折口の死者の書の作中では、二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈むとき、中将姫が観音様を感得するシーンがある。実際この位置からは、山間への日没は見えないそうだが、想像できただけでもよかった。
再度作品を読み直してみたい。
二上山といえば、この万葉集の哀歌もある
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌
弟である大津皇子が処刑された後、姉は弟の屍が埋められた二上山を写真代わりにみている。葬られた今日はまだ、弟の姿を思い浮かべることができるが、明日以降徐々に薄れゆく記憶の弟の姿を二上山に見る、そういう唄だ。
死者の書の中将姫も二上山に仏を見た。
二上山の形がそう特異なものとは見えないが、何かあるのだろうか。
先人の残した歌や歴史が実際の情景以上に彩りを重ね、後代の我々に様々な物語を想起させる。
その他 當麻寺の中之坊
當麻寺をじっくり堪能し、その中之坊の庭園も見ることができた。
この日はほとんど曇りだったが、奇跡的にこの庭園を鑑賞中は日が差して草花が輝いて見えた。
蓮の花が咲く季節に訪れることができたら、さぞかし極楽浄土のごとしだろう。
この日の午後は、再び明日香村にもどり、奈良県立万葉文化館へと向かった。これは別の記事で。