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逃れるだけが人生じゃないよ
押入れの奥に押し込めたあの感情。
忘れたことにしておこうと黒塗りした、その時の気持ち。
残念ながら無くなった事にはならなくて、身体や意識が全部覚えている。
日常生きていたら蒸し返されることはなくても、押入れのあの場所から遠隔操作されているが如く、その気持ち”在りき”で人生は進む。
記憶はダジャレでできている、というのは先生から聞いた言葉だ。
欲しいのに手に入れられない習慣は、やめなさい!と嗜められたり、もしくは欲しがるのを良しとしない人から考え方を申し送りしてもらっていたりする。
1番乗りを叱られたら猫舌になるとか、これは目から鱗だった。
押入れを開ける恐怖さえ乗り越えて手放すことを選ぶ。
これができれば気持ちや行動は変わる。
先日、父親からの身体のSOSがあり、久しぶりに親をセッションした。
身内によるセッションは、セキュリティがガチガチな故、あまり根本的な所へは立ち入れないのが常だ。
だから真綿を何重にも装備した針を使う。
筋反射の代理テストを用いて父の状態を読ませてもらった。
タッチフォーヘルスのキネシオロジーは、テキストおっぴろげだから、セラピストの独断も偏見も要らない。
本人の身体反応を辞書引きして、ほらネこう書いてあるよ、と言えばより本人のものになる。
訴えた痛みは腰の痛みだったが、原因は心臓などの経絡と肺の経絡が縮こまって、ダンゴムシ状態だったのだ。
どちらの経絡にも、言いたいことを我慢して心を閉ざし、呼吸も浅くして防御するような意味合いが共通していた。
前々から聞いていた父のエピソードを元にして心当たりを聞いてみると、まさにそういう時代があったとのことだった。
遥か何十年と前の昔の、数ヶ月間のことが今も尾を引いていたのだ。
それが特定されたら、そこから先に私の出る幕はほとんどない。
手放すか、持ち続けるか、を決めるだけなのだから。
手放したいなら、これからどう生きたいかを聞く。
答えが出れば私は経絡を流すお手伝いをする。
父は、治してくれてありがとうと何度も言ってくれるが、別に私は”治して”いない。
身体の声を聞いて、押入れから物を出しただけなのだ。
捨てろとも捨てるなとも言っていない。
これを言っても父親は話半分だが、それぐらい身体が軽くなったのなら、喜びの一つとして祝福するもありだなと思う。
痛みが取れたら終わりじゃない。
むしろここからだぜ、と念押ししている。
もちろん、自分のためにも!