クロサワ世界ver5
大系黒澤明 第4巻 浜野保樹 編・解説 講談社を読みながらクロサワ世界を描く。
1.峠の風
クロサワは中学を卒業する頃画家として立とうと決意する。
18才の時二科展に入選する。しかしそれからのクロサワは風雪の迷路に踏み込む。
画材も高く高価で家の経済のことを考えると充分に買えず画というものに没入し切れず、文学・画集・音楽・映画の知識を貪欲に吸収した。
兄が亡くなった時クロサワは23才だった。画家として生活を立てていくのは当時困難な事だったしクロサワは画家としての才能にも疑問を持ち始めていた。画集を見た後に外の風景をみるとゴッホやセザンヌの眼で見たように見える、クロサワの眼で見たように見えない。クロサワはそれが不満だったし不安でもあった。クロサワの画を描けず自己嫌悪を感じて描くこと自体が苦痛になっていった。
昭和11年のある日、P・C・L映画撮影所の助監督募集の広告が飛び込んできた。第一次試験は日本映画の根本的欠陥について述べよというものだった。2次試験はシナリオと口頭試験がある。その時にはじめて山さん、クロサワの生涯の最も良き師(山本嘉次郎監督)にあった。
山本組の仕事は楽しかった。
クロサワも絶対山本組を離れたくなかった。
幸せな事に山さんもクロサワを離さなかった。
山さんが今やっている仕事それこそクロサワが本当にやりたい仕事だったのだ。
クロサワは映画の世界に開けた眺望と一直線の道が見えた。
2.山さんから学んだもの
クロサワが4年間で山本組の助監督としてサードからチーフに進み、B班の監督で編集やダビングも学んだ。
P・C・Lは東宝映画に発展して一本一本の仕事は厳しい条件下で製作を強いられどの仕事も並大抵の苦労ではなかった。
山さんの仕事を少しでも良くしたい、信頼に応えたい気持ちが仕事に対する一番重要な性根を育てた。チーフになると生来の強情張りと一緒になり異常な執念のようになった。
チーフになって経験を積むと山さんはクロサワに脚本を書かせはじめた。
クロサワは原作通り立札を読んで来た水野がそれについて仲間に話すところを書いた。山さんは小説ならこれでよいがシナリオでは弱過ぎる。
水野が立札を見て来て話す代わりに立札を引っこ抜いてかついできて仲間達の前におっぽりだす。こんな具合だ。
クロサワはそれから文学の読み方が変わった。慎重に何を言おうとしているのか、そしてそれを何処に言おうとしているのか考えながら読む。同時にクロサワが感銘を受けたところや、肝要だと思った事を書きとめた。クロサワは先ずシナリオを書けと教わった。
シナリオの次は編集だった。自分の仕事を客観的に眺める能力を身につけた。要は余計なところの無い充実したものを見せる事だ。映画は時間の芸術といわれているが無用な時間は無用である。
監督になる為には撮影現場の仕事、演出が出来なければならない。映画の演出とはシナリオを具象化してフィルムに定着する仕事だ。
俳優に関する重要なものに人間は自分の事はわからない。自分の話し方や自分の動作を客観的に見る事は出来ない。意識した動作はその動作よりもその意識が見えてしまう事。どうすれば良いかを教えると同時に何故そうするのかという事を納得させなければならない事を教わった。
映画の音についても学んだ。ダビング→物音や音楽を入れる総仕上げの仕事、クロサワの映画は映像と音声の掛け算であるという持論はダビングの仕事を通して生まれた。
音の入れ方によって映像はさまざまな表情をかえて見るものに訴えかけてくる。そしてその音によって映像が見違えるような強烈な印象でせまってくる。
クロサワは性根、シナリオ、編集、演出、ダビングについて学ぶことが映画製作のBasicである。この4つが出来る様になって眼の中が熱くなった。
3. 32歳
クロサワはかんしゃく持ちで強情だ。監督になってからもそれは変わらないが助監督時代にはこのかんしゃくと強情で問題を起こした。
戦国群盗伝の御殿場のロケーションはまだ暗いうちに出て現場に着いた頃富士の頂上にやっと陽がさして薔薇色に染まる。クロサワは毎日の現場へ行く道や撮影始める前、休み時間、帰る時の情景が忘れられない。
朝薄暗い道を走る自動車の窓から見ていると道の左右にある古い百姓家からまげをかぶり鎧を着て槍や刀を持ったエキストラの百姓が戦国の情景のように見えた。
クロサワはこの御殿場という町と富士の裾野とそこの住人と馬とに結ばれて数本の時代劇を作る事になる。七人の侍や蜘蛛巣城になるのである。
ある日新聞を読んでいて姿三四郎という題名に眼が止まった。クロサワは直感でこれだと思ったのである。信じて疑わなかった。クロサワは東宝の企画部長の森田さんのところへ行きこの本を買ってください、素敵な映画になります。森田さんは私にも読ましてくれと言った。クロサワは渋谷の本屋に何度も通い姿三四郎が出ると夜中に森田さんの家へ行きドアを叩いた。クロサワは森田さんに姿三四郎の本を突き出して絶対です、買ってくださいと言い、森田さんはわかったと請け合った。
クロサワはようやく監督としての第一歩を踏み出すことができた。姿三四郎の脚本は一気呵成に書いた。この時クロサワは32歳。やっと自分が登るべき山にたどりつきその山を見上げた。
4.姿三四郎
よくいろんな人に処女作の感想を聞かれるがそれは前に書いたようにただただ面白く毎晩翌日の撮影が待ちどうしくて苦しい事などは一つもなかった。スタッフも一心同体のように働いてくれたし少ない予算なのに大道具も衣装も予算を度外視してクロサワの望み通りの物を作ってくれた。
一本立ちになる前に感じていたクロサワの演出力に対する疑念も最初のカットを撮り終えると実にのびのびと仕事ができた。監督の立場に立って見ると助監督の立場で見えなかったものがよく見える。その立場の微妙な差に気がついたのである。そんなわけで姿三四郎は処女作だが思う存分の仕事をした。
しかしこの仕事で苦しい事はなかったと言っても三四郎と源之助が決闘する最後のクライマックスのシーンではちょっと苦労した。この場面は風が吹きまくっているという設定で烈風という条件がないとほかに6つもある決闘のシーンを上まわる迫力は望めない。
出来上がったセットを見て作品を台無しにする貧弱な映像しか撮れないと思った。そのシーンをロケーションで撮る了解を得たが一向に風の吹く気配はなかった。もう引きあげねばならない最後の日に一陣の風がさっと窓から吹き込んで床の間の掛軸が音を立てて舞い上がった。スタッフも俳優も好条件の風の中で無我夢中で働いた。ただ今もって残念に思うのはその神風もクロサワの経験の浅さから万全に使いきれなかった事である。クロサワは充分に撮ったと思ったのに編集の時に撮り足りないところが沢山あった。以後クロサワはもう充分と思っても3倍はねばる事にしている。これは姿三四郎の風の中の苦い経験から学んだ。
姿三四郎の中の人物でクロサワが愛情を傾けた人間は姿三四郎であるが今思うとそれに劣らぬ気持ちを源之助に抱いていたようだ。
クロサワは青二才が好きだ。
未完成なものが完成していく道程にクロサワは限りない興味を感じる。
クロサワは青二才が好きだといっても磨いても玉にならない奴には興味はない。
三四郎は磨いているとだんだん光って来る素材だから作品の中で一生懸命磨いてみたのである。源之助も磨けば玉になる素材である。
しかし人間には宿命というものがある。その宿命は人間の性格の中に宿っている。厄介な性格の為に環境や立場に負けて亡びる人間もいる。源之助がそうだ。
だからクロサワは源之助の末路を愛情を傾けて描きその宿命を見つめている。
姿三四郎というクロサワの処女作に対する評価は概して良かった。特に一般観客は戦時中で娯楽に飢えていたせいか熱狂的に観てくれた。
5.羅生門
その門は日ごとに私の頭の中で大きくなっていった。羅生門を京都の大映で撮影する為に京都へ行った時の事である。その時クロサワは京都や奈良の古いいろいろな門を毎日見て歩いていたがそのうちに羅生門の大きさが最初に描いていたものよりも次第に大きなものになっていったのである。
セットとしてはあまりに大きいので上部の屋根をまともに作ったのでは柱がそれを支えきれないので荒廃しているという設定を口実に屋根の半分をくずしたり寸法を盗んだりして建てた。それにしても随分大きなオープンセットになってしまった。
羅生門という企画は芥川龍之介の藪の中をシナリオにしたものである。多分ほとんど無意識にあのシナリオをあのまま葬ってしまうのは惜しい、なんとかならないものかと頭のどこかで考えていたのだろう。映画羅生門はこうして徐々に私の頭の中で育ち形を整えて来た。
当時クロサワは映画がトーキーになって無声映画の良さをその独特の映画美をどこかへ置き忘れて来てしまったように思っていた。無声映画に戻って映画の原点をさぐる必要がある。特にフランスのアヴァンギャルドの映画精神から何か学び直すものがあるはずだと考えていた。羅生門はそのクロサワの考えや意欲を実験する格好の素材であった。
クロサワは人間の心の奇怪な屈折と複雑な陰影を描き人間性の奥底を鋭いメスで切り開いてみせた、この芥川龍之介の小説藪の中の景色を一つの象徴的な背景に見たてその中でうごめく人間の奇妙な心の動きを怪しく錯綜した光と影の映像で表現してみたかったのである。そして映画ではその心の藪の中をさまよう人間の行動半径は大きくなるので舞台を大きな森の中へ移し替えた。その森には奈良の奥山の原生林と京都近郊の光明寺の森を選んだ。
羅生門のセットは巨大だったから降らせる雨も大がかりなもので消防車の助けをかり撮影所の消火栓をフルに使った。羅生門の空を見上げたアングルでは曇り空に雨が溶け込んで見えないので墨汁の雨まで降らせた。クロサワにはその巨大な門をどうしたら巨大に見せられるかというのが一つの課題だったがそのためには奈良のロケの時に大仏殿の巨大な建物を対象にして色々研究したのが役にたった。
もう一つの課題に森の中の光と影が作品全体の基調になるからその光と影をつくる太陽そのものをどのように捕えるかという問題があった。クロサワはその問題を太陽をまともに撮ることで解決しようと考えた。
強烈な印象として残っている音楽の話をする。クロサワの耳には脚本で女主人公のエピソードを書いているときすでにボレロのリズムが聞こえていた。
スクリーンにその場面が映りボレロが静かにリズムをきざみ始めた。ボレロが一段と高らかに歌い始めた時突然映像と音楽はぴったり噛み合って異常な雰囲気を盛り上げ始めた。それから音楽と映像はクロサワの頭の中の計算を越えて不思議な感動を織りあげていった。こうして羅生門は出来上がった。
ある日多摩川に釣りに出かけた。多摩川で釣竿を一振りするとその糸がなにかに引っかかってぷつりと切れた。釣りの仕掛けの予備はなく早々に竿をおさめて家へ引き返した。そして憂鬱に家の玄関の戸を開けると女房が飛び出して来ておめでとうございますと言った。クロサワはむっとして何がと聞くと、女房は羅生門がグランプリですと答えた。のちに羅生門はアカデミーの外国映画最優秀賞もうけた、日本の批評家は東洋的なエキゾチズムに対する好奇心が強かったと言った。図らずも羅生門はクロサワが映画人として世界に出て行く門になった。
人間はこれがクロサワである、といって正直な自分自身については語れないが他の人間に託してよく正直な自分自身について語っている。羅生門以後のクロサワについてはそれ以後のクロサワの作品の中の人間から読み取ってもらうのが一番自然で一番いい。