「車でお遍路(キーワード)」 天正の兵火とは
こんにちは、旅いこかです。
四国八十八箇所巡りをしていると、たびたび耳や目にする言葉でお遍路さんにとって記憶に残しておかなければならない悲しい歴史があります。
それは約450年弱前の、
天正の兵火
戦国時代(1467年-1614年)、四国において天正4年(1576年)から約10年間に起きた寺院の焼失という事件。
四国八十八箇所霊場の被害
なんと、被害は28ヶ寺と88ヶ所の3割以上があってます。
霊場別では、
阿波霊場(徳島県):23寺中 13寺
伊予霊場(愛媛県):26寺中 4寺
讃岐霊場(香川県):23寺中 11寺
天正の兵火とは
時は戦国時代(1467年-1615年)。
この中心人物は、土佐の国(高知県)を制覇していた戦国武将長宗我部元親。
長宗我部元親は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐の戦国大名で長宗我部氏第21代当主でした。
1539年に岡豊城主国親の子として誕生した元親、少年時代は色白くおとなしい性格で「姫若子」と呼ばれるほどだったという。
そんな元親なのですが、
下年表をご覧いただく通り、戦国武将として1585年春まで四国統一に力を入れるんですね。
その間には、全国統一を図る織田信長や豊臣秀吉が登場しますが、最終的には四国統一を果たした直後に豊臣秀吉の軍門に下るという。
そんな時代に、元親は権力を掌握するために多くの寺院を焼き討ちにしました。
元親の30歳代以降の戦を年表にしましたので、過去の経緯をご参考にして頂ければと思います。
(情報ソース:Wikipedia、高知市公式HP、高知県HP、他)
長宗我部元親の戦年表
1571年(32歳) 土佐七雄(土佐7豪族)の最大勢力本山氏を制す
1575年 四万十川の戦いに勝利(土佐一条氏が降伏)、土佐を平定
1578年2月 阿波白地城を攻略(大西覚養氏が降伏)、讃岐へ侵攻
1579年夏 重清城を奪い讃岐十河軍に大勝
1580年 阿波・讃岐をほぼ制圧
1580年 織田信長は土佐と阿波南の領有を認めて臣下となるよう迫るが拒否、織田信長と対立が決定的
1581年3月 (織田信長の助力を得た)阿波三好氏・讃岐十河氏らの反攻
1582年6月 織田信長が倒れる(本能寺の変、明智光秀による暗殺)
1582年8月 阿波中富川の戦いに勝利(阿波三好氏が降伏)
1582年9月 阿波国勝瑞城に籠る十河存保氏に勝利、阿波を平定
1584年 讃岐引田の戦いに勝利(羽柴軍、仙石秀久氏が降伏)
1584年6月 十河城の戦いに勝利(十河氏が降伏)、讃岐を平定
1584年12月 伊予の河野通直氏、西園寺公広氏が降伏
1585年春 西伊予の豪族を降伏させて四国全土を統一制覇
1585年6~8月 全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)による四国攻め(天正の陣:金子城の戦い、高尾城の戦い)に敗北
1585年7月25日 秀吉に降伏。土佐一国のみ安堵、阿波・讃岐・伊予は没収
1599年5月19日 京都伏見にて病死 享年61歳
最後に
寺院の焼き討ちというと、信長の延暦寺焼き討ちが有名です。
織田信長が比叡山延暦寺のすべてを焼き払うように指示したのは1571年9月、元親も同様の悲しい事件を起こすことになったのです。
寺院や守るべき文化財などの心の拠り所を求めて集団化、その力は大きく為政者は恐れて敵対視する。
それほど単純ではないけど、海外でも同様のことが起きてます。
戦中戦後の世界を歴史に学び、二度とこのようなことは起きて欲しくないと祈ります。
合掌