絶望のなかで、希望を見つける方法とは? 僧侶が読み解く映画『ギルバート・グレイプ』
松本智量のようこそ、仏教シネマへは、「仏教と関わりがある映画」や「深読みすれば仏教的な映画」などを〝仏教シネマ〟と称して取り上げていくコラムです。気軽にお読みください。
映画「ギルバート・グレイプ」
ラッセ・ハルストレム監督
1993年アメリカ作品
若きジョニー・デップとさらに若いレオナルド・ディカプリオが共演。その瑞々しさを目当てに観始めるのもよし。2人の卓越した演技に感嘆します。
ギルバート(デップ)は、片田舎の小さな食品店に勤めています。家族は弟アニー(ディカプリオ)、姉エイミー、妹エレン、そして母ボニーの5人。アニーには多動と知的の障害があり、ボニーは過食症で引きこもり状態。その2人の世話をギルバートとエイミーとエレンは余儀なくされているのです。
ギルバートの住む町には何の刺激もありません。勤めている店も、新しく出来た大型店に客を奪われ、先の希望が見えません。閉塞状態にありながら、そこから抜け出す選択肢など考えられないギルバート。なぜならギルバートは、さまざまなものに縛られているのです。
介助が不可欠な家族。それに好奇の目を向ける近隣住民。迷惑者として取り締まる警察。そして、家。ギルバートの父は自ら建築した家の中で自死をしたのでした。その事実が家族皆の重い鎖となっていました。
アニーのことで毎日「すみません」と謝り続けのギルバートは、ある日、車で旅をしている女性・ベッキーと出会います。早々にしくじるアニー。慌てて謝るギルバート。
2人にベッキーは笑ってこう告げます。
「謝らないで。誰も悪くない。だから謝らないで」。
その言葉はギルバートの何かを解くきっかけとなりました。
ベッキーとのデートの帰り道、わが家を眺めたギルバートはつぶやきます。
「驚いたな。ここから見るとあんなに小さいんだ。中身は……あんなにでかいのに」。
他者との出会いによって、自分を縛っていたものの実相が見えてきたのでしょう。不自由な自分を解放させる鍵は、自分の中にではなく、呼びかけてくれた先にありそうです。
松本 智量(まつもと ちりょう)
1960年、東京生まれ。龍谷大学文学部卒業。浄土真宗本願寺派延立寺住職、本願寺派布教使。東京仏教学院講師。
自死・自殺に向き合う僧侶の会事務局長。認定NPO法人アーユス仏教国際協力ネットワーク理事長。