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乱暴者の少年。原因は「言葉の壁」だった【シリーズ教誨師 第3回】

刑務所や少年院などの矯正施設で、被収容者(収容されている人)と対話を続ける宗教者を「教誨師」といいますが、この成り立ちには浄土真宗が深く関わっています。本願寺派で宗教教誨がはじまり150年を迎えたのを機に、この活動を紹介します。


【第3回】教誨師の歴史②


 日本国憲法と教誨師

 第二次大戦後『日本国憲法』が施行されました。第20条で「信教の自由」が保障されると同時に、国とその機関による宗教的活動を禁じたことから、矯正施設で宗教教誨を行うことはできないと考えられていた時期もあったようです。しかし被収容者の宗教的欲求に沿うことは日本国憲法の要請であるとし、民間篤志の宗教者へ協力を求め、宗教教誨は位置づけを変えて続いていくことになりました。前回述べた公務員から、ボランティアへという変化です。

全国教誨師連盟

 戦後の混乱が続くなか教誨師は個々に活動していましたが、様々な社会制度が整っていくのに合わせるように、1956(昭和31)年、第3回全国教誨師大会において「全国教誨師連盟」の設立が決議されました。6年後、初代総裁に本願寺派の大谷光照門主(本願寺第23代勝如上人)が就任されたのですが、設立に当たって大谷光照門主は一千万円を拠出し、連盟の最初期を支えました。統一的な組織ができたことにより、現在の教誨師活動の形が整っていきます。

 全国教誨師連盟は2012(平成24)年に「公益財団法人」となり現在に至りますが、この間、大谷光真前門主(本願寺第24代即如上人)が第二代総裁、大谷光淳門主(現ご門主)が第三代総裁(現職)に就かれています。
 
 二回にわたって歴史を紹介しました。資料を提供してくれた全国教誨師連盟事務長の谷澤正次さんは「歴史的には、宗教教誨は東西本願寺の僧侶から始まりましたが、私財をもって刑事施設に説教所を建て、教誨を願い出た僧侶の記録などを見ると、先輩方も、収容されている人を決して他人事と見ていなかったのではないかと感じますね」と聞かせてくれました。

 
教誨の現場から 
大喜多 正洋 師(茨城農芸学院所属教誨師、保守バプテスト同盟・恵泉キリスト教会牧師)
 
―― 施設での活動はどのようなものですか。
 コロナ後、教誨師が寮に入ることが無くなり、毎月二名の少年との面接と、年に一回の全体講話をしています。また、宗派による行事として、仏教は花まつり、神道は収穫感謝祭、キリスト教はクリスマスの集いを行っています。施設に一泊する宿泊研修はなくなりましたが、新たに一日研修が始まり、少年たちと作業を共にする交流が再開されました。

―― 少年院でのエピソードを聞かせて下さい。
 ある外国籍の少年の思い出です。とても乱暴者で手に負えないので対応してほしいと施設から依頼されました。彼に会って身の上を聞くととても心が痛みました。言葉が分からず、学校でいじめられ、心が荒すさみ、非行に走ったというのです。私は日本人を代表して彼に謝罪しました。彼に会うたびに、神の愛を伝え、別れ際にハグをしました。やがて、彼が変化したと知らされました。運動会では司令官を務め、最優秀の成績を収め出院したというのです。愛に飢え渇いていた少年だったのです。

(文/水戸刑務所所属教誨師・藤本真教)

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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