108歳まで生きた西念房が作ったお寺【第16回】楠井山清浄寺(埼玉県吉川市)
ご旧跡紹介
寺伝によると、清浄寺の開基・西念房は、源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州高井郡井上城主・井上盛長の子で三郎貞親といった。貞親が5歳の時に父盛長が奥州の乱で討ち死にし、28歳の時に母に別れ世の無常を観じ、越後の親鸞聖人を訪ねて門弟になった。
親鸞聖人より11歳年下の西念房は、常時聖人にお供し、越後から関東へと移り、武蔵国足立郡野田(さいたま市浦和区)に坊舎を建立し、西念寺と号した。その後、聖人の命により、当時諸国の船通路で諸人の集まるところであった二郷半木売川戸と(吉川市木売)にあった新義真言宗の寺、西光院で念仏道場を興した。これが後の清浄寺である。
西念は西光院と西念寺を行き来しながら念仏のみ教えを弘める生涯を送った。1289(正應2)年、西光院すなわち清浄寺にて108歳で往生した。
1838(天保9)年、下総国野田(千葉県野田市)の、後に醤油醸造業「キッコーマン」を会社組織化した5代目茂木佐平治の篤志により堂宇が新築され、このとき西光院から独立し浄土真宗の清浄寺として寺院化された。
現地ルポ
JR武蔵野線吉川駅南口から徒歩5分、今は住宅地の真ん中にある清浄寺ですが、藤井寿雄住職(71)が幼い頃は「この辺りはうっそうと木が生い茂っていたんですよ」といいます。
門前には「おむくの池」が囲われている清浄寺の史跡公園があります。これは親鸞聖人帰洛の後に、西念房が聖人を訪ねた際、聖人から賜り持ち帰ったと伝わるご自刻の御真影を、第3代西順が、戦乱で世が乱れた際に失われることを恐れ、門前の畑に埋めた場所です。
やがて西順は往生し、第4代了西の頃、門前の土がむくむくと動き出し、驚いた村人たちがそこを掘ると木像が現れました。以後、木像は「むくむく」と「無垢」をかけて「おむくさま」と呼ばれたということです。「おむくの池」は掘り出された跡地に作られました(危ないので今は水は入っていません)。藤井住職によると、かつては西光院(=清浄寺)で報恩講をおつとめした後、そのまま「おむくさま」を籠で担いで野田に移動し、キッコーマンでも報恩講をつとめたといいます。その参詣者の数は、最盛期に3000人に及んだといわれています。
旅ある記
星 今回は印象に残ったことが2つありまして。
藤 なんでしょう。
星 1つは西念房について。親鸞聖人が越後にいた頃から随行し、108歳まで長生きして、本願寺第3代覚如上人が東国に来た折にも会っているということで。
藤 そうだよね。覚如上人が親鸞聖人の一代記を「親鸞伝絵」という形で残すにあたって、西念房のお話は欠かせなかったんじゃないかな。
星 あと、「楠井山」の由来です。藤井住職は「真宗的ではない」とあまりお話しされませんでしたが、親鸞聖人が楠の古木を杖で叩いたところ、水が湧いたという伝承があったそうで。
藤 この企画でいろんなお寺に参拝していますが、お寺によってさまざまな伝承が生まれるくらい、親鸞聖人のみ教えが人々に与えたものが大きかったんだろうね。
星 しょうゆうことですね。
藤 キッコーマンだけにね。
(藤本真教・星顕雄)