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表現の自由研究「生と死」

本稿では「死」について取り扱います。
苦手な方、精神的に苦しんでいる方など、読むことでショックを受ける恐れがある方はブラウザバック推奨です。

ご覧の方に不死の方はいらっしゃいますでしょうか。
おそらくいませんでしょうけど。

私は死にます。
いずれね。
それが明日なのか、はたまた50年後なのか。
技術が進歩して100年後になるのか。
いずれにしても、「死」は避けられません。
人類いや生物のほとんど(ベニクラゲのような例外を除いて)は死にます。

さて、ここで問いです。
「死は悪いものでしょうか?」

本稿ではそんな問いへの答えを探っていきます。
美術・宗教・哲学の側面から「生と死」についての見解を並べていき、写真においての「生と死」はどのようなテーマであるのか、について見ていきましょう。

本稿を読むことで、「自分がなぜ生き、どう生き、どう死ぬのか」についてのヒントをご提示いたします。
答ではありません
私が本を読んで、世界の見方を見直した体験を、疑似的に体感していただきます

構成としては
①死とは何か
②生とは何か
③筆者の意見
④生きることは良いことか、死ぬことは悪いことか
⑤写真と「生と死」
で進めます。

6,000字超えのボリュームになってしまったので、お暇なときにご覧ください。
また全文無料で閲覧可能ですが、いつもよりがんばったのでサポートとして投げ銭してくれたら狂喜乱舞して明日からも生きられます。
ぜひ。

死とは何か

①絵画表現における死

まずは絵画作品における死を見ていきます。
キリスト教圏においてはイエスの磔刑がモティーフとして選ばれることがしばしありましたので、比較的触れる機会の多いテーマです。
詳細はこの後の節で触れます。

Wikipedia「キリストの磔刑」より引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%A3%94%E5%88%91

また神話における死も多く描かれています。

Wikipedia「オシリス」より引用「死者の書」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%B9

また宗教や神話でなくとも。

エゴン・シーレ「吹き荒れる風の中の秋の木」

死は、誰にでも訪れるという意味でも身近なテーマであり、また探求したくなるテーマであったのでしょう。
宗教や自然物を描くことで、現実的でありながら実態の掴みにくい概念を形作ろうとしました。
その1枚に込められた思い、哲学を読み解くことで、人々は死に対する恐れへの理解を深めていったのです。

では何が人々の興味を「死」に向けさせるのでしょうか。
こうして古来より絵画作品のテーマに選ばられるからには、それなりの理由があるはずです。
まずは絵画でも描かれている「宗教」の側面から見ていきます。


②宗教における死

死んだらどうなるのか?(参考文献.1)の第一部にて、日本人の死後観を6つの範疇を立てて分類しています。

  1. 他の人間や動物に生まれ変わる

  2. 別の世界で永遠に生き続ける

  3. すぐそばで子孫を見守る

  4. 子孫の命の中に生き続ける

  5. 自然の中に還る

  6. 完全に消滅する

「日本人の」と付けましたが、日本には様々な文化圏から文化が流入していますので、世界的なものと照らし合わせても大きくズレてはいません。
宗教というくくりで見たときも同様で、それぞれ上記のいずれか1つ以上の死後観を有しているとのこと。

大どころの宗教でくくってみると、

・仏教:1 or 2
輪廻思想のなかでは1。死んだら、そのステージでの行いによって評価され、来世での扱いが決定する。地獄までいくと、とてつもない年月の苦しみを受ける。
極楽思想のなかでは2。他力本願で往生し、浄土で過ごすことになります。

・神道:2
自然信仰や祖霊信仰の中に取り込まれ、現世の人々を見守ります。お盆になると現世に来るのは、神道の文化だそう。

・キリスト教、イスラム教:5 or 6
基本的には終末論。ただし教えによっては天国か地獄に行きますが、最終的には世界が終わるまで待つだけです。

またそれぞれの宗教において、預言者や指導者の死に対しての認識も異なります。
例えば先ほど掲載した「キリストの磔刑」は、「神が我が子たるイエスが、人類の罪を背負って死を選んだことを、悲しみながらも受け入れた」と解釈するようです。
仏教でも「涅槃図」と呼ばれるブッダの死を描いた宗教画があり、弟子や動物たちの悲しみを通じて教えの偉大さを説いています。

玉泉寺HPより引用
http://www.gyokusenzi.com/sanbukki/nehanz/nehanz.htm

ここで一つの結論を。
「宗教における死のとらえ方は、宗教・宗派ごとに異なる」


③哲学における死

これまたまとめるのが難しいです。
ですが、ここでは雑に上記①~⑥で分類できる、としておきます。

しかし哲学では、より「死とは」「死ぬとは」という点を深堀していきます。
宗教においては、そういった世界観は「与えられるもの」ですが、そこにとらわれず、生物的・社会的・倫理的側面から観察し、答えを導いていきます。

本稿では、文献をもとに「哲学における死」の論を引いて、私なりの考えを導出していきます。

死は悪いものか

死ぬって怖いですよね。
周りの人が死ぬのって悲しいですよね。

では、死は悪いものでしょうか。
きっと悪いものですが、ちょっと疑問が浮かぶのです。
いろんな側面から考えます。

①人生は良いものか

人生、つまり「生」は良いものでしょうか。
とりあえず良いものだと仮定しましょう。
すると、なぜ人は自殺するのかという疑問に当たります。

人生が良いと仮定したとして、幸福の量は人によって異なります。
一代にして財を成して贅沢ができる人、親から資産を受け継いで裕福な人。
生まれながらに貧乏な人、何らかの理由で親がいない人。
タワマンに住む人、その足元でホームレスとして暮らす人。
健康に過ごす人、身体や精神を病んでしまう人。

宗教が唱える「人生は神に与えられたものだ」「神は乗り越えられる試練しか与えない」といいますが、これは「人生は良いものであるはず」という前提に立ちます。
しかしそんなことない人がいることは、先の例からもわかるでしょう。

「人生は悪いもの」とは言えないものの、同時に「人生は良いもの」とも言い切れないのではないでしょうか。


②不死は良いものか

あながた不老不死になったとします。
100年後、500年後、1000年後、あなたは幸せでしょうか。

たぶんこう思うはずです。
「永遠に望ましい状態であるとは思えない」と。
良いときもあれば、悪いときもあります。
そして長い年月をかけて飽きてしまうのではないか、とも。

かつては「不死の薬」を求めた時代もありましたが、こと現代において不死を望む人はごくごく少数です。
それは医療が発達し、それ以前よりも死が遠のいた結果です。
つまり「十分な時間生きられる」と人々が思い始めたのでしょう。
不死でなくても良くなった、と理解されたのです。

望ましいのは、不死ではないのでしょう。
では望まれるのは、どんな人生でしょうか。


③死は、自殺は悪いものか

①と②から、こんな考えを出してみます。
「自殺って悪いものではない」。

なぜかといえば。
「不死は良くない」としたとき、「死は悪くない」と考えられます。
「この先、悪い人生にしかならない」となったとき、「生は悪い」と考えられます。
このときに取られる手段としての自殺は、果たして悪くないのではないでしょうか。

具体例を出すなら、「末期のガンで、痛みと抗ガン剤の副作用に苦しみながら、命の終わりを待つ」状態。
確かに治るかもしれない希望を持つことも必要でしょう。
しかし「早く楽になってしまいたい」と考えるのも自然です。

ひとつ反論をするなら「そこまで追い込まれているなら、正常な判断ができていないだけだ」です。
しかし、「この先の人生で、好転する時が訪れる」という希望的観測についても同様のことが言えるのではないでしょうか。
つまり、人生は良いもので、この先良いことが必ず訪れるという考えは、本当に正常な思考の元で下されたものなのか、と。

いいことが起こる=生きる理由なら、いいことが起こらない=死が妥当、とも言えるのです。
場合によって、死は悪くない。

生とは何か

さて、ここまで死について書いてきました。
ここからは「生」についてです。

生って何かと一言で言えば、「生命活動を始めてから終えるまで」。
これで終わっては仕方ないので、こちらも深堀っていきます。


①宗教における生

死のように範疇を立てて分類している書籍には当たれませんでしたので、各宗教での考え方について整理します。

・仏教
人生は苦しい修行だと考えます。
輪廻六道という考え方に基づき、苦しみのない世界へ行くため修行に励むのです。
なので仏教の教えを見ると、「この苦しみはこう考え、こう対処すればいいよ」みたいなものが多く見受けられます。

・神道
ベースとして「先祖より代々受け継がれた命」という考え方を取ります。
祖霊信仰や、国生みから続く皇族への信仰などが代表例です。
土着の信仰ですので決まった協議などは薄いですが、自然に生かされながら「なぜ生きるのか」と考えることになります。

・キリスト教
神から与えられた命です。
神は完全ですので、その神から命を与えられた自分は寵愛を受けた命だと考えます。
ただ体は魂の入れ物であると考え、魂自体は体が死んでも終末まで生き続けます。

・イスラム教
キリスト教と同様、神から与えられた命だと捉えます。
ただし「来世思想」と呼ばれる思想があり、今の命は本番たる来世に向けた準備期間と考えます。


②哲学における生

文献を読んだ中から分類してみると次のようになります。

・宗教をベースに考える
信奉する宗教の考え方をそのまま受け入れる、もしくは考察して深めるなどして、生について解を出します。
すなわち何かしら目的や意図、意思が存在し、”生かされている”状態とでも言いましょう。
どちらかといえば神学や宗教学に近しいでしょうか。

・生きることに意味は無い
ニヒリズムなどのような世界観に基づくもの。
人間はただの動物、または原子の集まりであると考え、そこに大いなる意思は存在しないとします。
よって、人生における意味、はては生きる意味などない、と結論付けます。

・幸福のために生きる
人間本位で考えたとき、「ただ自分が幸福であるために生きる」という考えを導くことができます。
人間を、思考する社会性動物、ひいては特別な存在としてみたとき、この考えは自然発生的に浮かんでくるものになります。

いつ生まれ、いつ死ぬのか

ここで一つの疑問を挙げます。
「人間はいつ生まれ、いつ死ぬのか」。
これは一人の物語的な観点というより、人類全体の定義についての考えで進めます。

例えば、日本においては「妊娠22週以上」が生きていることのボーダーラインとされています。
これは中絶が可能な期間が「妊娠22週未満」と定められていることから導かれるもの。
つまり22週未満なら”いのちでない”し、22週以上なら”生きている”のです。

しかしこれは本当でしょうか。
22週未満であっても、細胞分裂を繰り返して”生きて”います。
22週以上であっても、まだお腹から出ていませんし、意思もありません。
どこにボーダーが存在するのかというのは、我々が恣意的に決定したものにほかなりません

また死についても同様です。
医療の3要素として次の確認がなされると「死亡」と診断されます。

自発呼吸の停止
心拍の停止
瞳孔の散大

一方、臓器移植の観点では「脳死」というボーダーラインも設定されていますが、定義にあいまいな部分があります。
また事故などで、身体機能もしくは知能に異常が出て、チューブにつながれていないとその後生きていられない状態になった時、その人は(社会的に)生きていると言い切れるでしょうか。

さまざまな論はありますが、「いつ生まれ、いつ死ぬのか」という点すら、あいまいさを残しているのです。
生とは何か、死とは何か、という論に結論を出すのは、現段階では困難を極めます。

筆者の考え

ここまでは本の内容の抽出でした。
ここからは私が考えた内容です。

前提:死生観は「選択」である

ここまでいくつかの例をもとに進めてきましたが、なにか一つの絶対的正解というものは提示していません。
むしろ、提示できないです。
なぜなら正解などなく、「自分がどのような立場をとるのか」という選択によって決まるからです。

私は仏教と神道の世界観で生きてきました。
例えばその私がイスラム教へ改宗した場合、来世への期待という死生観にシフトすることとなります。
別のルートとして、哲学の道に進みニヒリズム的世界観にシフトすることも可能です。
何を根拠に世界を観るのか、というのは自分で選べるのです(信教の自由が保障されている場合)。


死生観:人間は動物だし、人生に意味は無いし、死後は「無」

私自身も、死生観について選択的に結論を持つことができます。
私の結論は題の通り。

人間と言えど特別な存在などではなく、ただの動物の端くれにすぎません。
なので生まれた意味も、生きる意味もないし、体は魂の入れ物でもありません。
死後は極楽浄土に行って修行に励みたいですが、死んだら「無」です。

でもそれだけでは意欲もへったくれも無いので、すこし要素を足します。


人生は、何もしないには長過ぎる。だから「いま」を見る。

これは文献3にある一文の抜粋です。

私は自分が嫌いなので、この世から一刻も早く消え去りたいです。
しかし死ぬための痛みや、死にきれなかった時のことを考えると怖いので、仕方なく生き続けています。
すると人生は長く苦しい。

なので、少しでも人生の価値をプラスに持って行く行動をしようと思うのです。
これまでの人生の価値はマイナスもマイナス、債務超過。
それでも生きてしまっているので、ぶっ生き返す必要があります。

幸福絵画など、学ぶことで視野を広げたり。
プロレス撮ったり、街撮ったり、人や花を撮ってみたり。
インプットをもとに文章を書いてみたり。
そうすることで、人生の価値の総量をプラスにしようと足搔いていくほか、私が生きる希望を見出す手段はないのです。

私が興味を抱くのは、自分が愛を獲得するための方法、そして「いま」
いま目の前にいるあなたが、一番輝いていられる画とは何か。
あなたのいまこの瞬間を記録することで、何が生まれるか。

生にも死にも意味は無くとも、「いま」には意味づけできるのでは、と考えています。


写真と「生と死」

これは今後私が取り組んでいくテーマのひとつ。
写真に写ることで、明日から生きる希望になるのか、と。

昨年、こんな記事を書きました。
ある役者さんがセクハラ・パワハラを理由に、劇団や演出家を提訴した件をベースに、「明日からも生きてやってもいい」について考えています。

これは願望です。
「写真が生きる希望になってほしい」

上述したように、「今後の人生が悪いものであるなら、自殺は正当化されよう」という論は覆すのが難しいです。
しかし。
もし写真に写って、「なんか自分いいかも」「また撮ってもらえるように頑張ろう」って思ってもらえるなら
それは生きる理由たりえる、ぶっ生き返す原動力たりえるのではなかろうか、と。

絵画の世界でも、写真の世界でも、「生と死」は一大テーマです。
避けては通れません。
しかし、直接的に表現しなくてもいいのでは、と考えています。

なので私は「生と死」そのものは写真に撮りません。
「いま」です。
それはつまり「愛」です。
自分を、相手を、愛することで表現できるものはあるのでしょうか…

おわり。

おわりに:死生観はひとそれぞれ

雑に締めます。
ここまで読んでくださった方は、活字中毒か、私の熱烈なファンの方だと存じます。
本当にありがとうございます。
お陰様でこうしてアウトプットが出来ています。

何か得るものがあれば、あなた自身の「生と死」について考えてみてください。
そして、今ある命をどう使うのか、どう生きるのか、どう死ぬのか、ご自分で選択してみましょう。
何か見えてくるかもしれません。

過去最大の分量になった本稿、おしまいです。
ちょっと頑張ったので、よければサポートでもしてやってください。
次の執筆まで生きられるので。

それでは。

参考文献

1:死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学 伊佐敷隆弘 著
2:死の講義 橋爪大三郎 著
3:「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版 シェリー・ケーガン (著), 柴田裕之 (翻訳)
4:イスラームの人間観と死生観 - 東京国際大学 塩尻 和子


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