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系図。森のバロック。そして手渡された大切な何か。

大層な目標を掲げて物語を語り始めた1996年、一体何が手がかりになったでしょうか。

忘却の向こう側に置いてきてしまった多くのものごとを引き寄せる作業が、最近になって続いています。

武満徹さんの「系図(Family Tree)」については以前、書かせて頂きました。

ところで、最近になって、その重要性を別の理由から思い出して再読の機会を得た本があります。

茫然たる事多時。

武満徹さんの突然の死と、
中沢新一先生の鮮やかに描いた、森に入る南方熊楠の印象が眩しく輝いて、物語を牽引する強い力になっていた事をたらためて発見したのです。

加えて、

「系図(Family Tree)」という作品が、武満さんの作品の中にあって際立って特別なものである、という明かなことにも気がつきました。

「—若い人たちのための音楽詩」という副題とあわせ、この音楽は谷川俊太郎さんの詩とともある、というとても大事なことにようやくと思いが至ったのです。

「系図(Family Tree)」という作品が詩の朗読とともにある、ということは、僕にとってあまりに当たり前で自然なことでした。故に(あたりまえの事が、当たり前の如くにあるという事に気づくのが、実は一番難しい)意識が向くことはありませんでしたが、詩の内容と、澄んだ清らかな声と、そうしてオーケストラの響きがあまりに見事に一つになって心に届く、という事態は、音楽というものにとって類い希なる僥倖であるということに、今頃になって気やっと気がついたのです。

もし。
もし、武満徹さんが谷川俊太郎さんと手を携えたこの作品を、
「系図(Family Tree)—若い人たちのための音楽詩」という音楽と詩の見事に融合した作品を作り上げていてくださらなければ、
果たして僕が何かを文字にして並べることができたか心許なくなるのです。

ああ。
途方もなく多くの方々のお力添えがあったからこそ、
「あおいのきせき」は書かれたのだ。
と、
思い至って茫然としてしまうところを鞭打つように自らを奮い立たせてこの文字を綴っています。

詩を、
本質をついた谷川俊太郎さんのお書きになった見事な詩を、
オーケストラを後ろに
遠野凪子さんが美しく声にしてくださらなければ。

それらが見事に相まって、後の走者がしっかりと掴む事ができるような形になったからこそ、僕がそのバトンを手にすることが出来たのだ。

そう、気がついたのです。

系図。
ここに至って、系図とは、「精神のリレー」の事でもあったのだ、とようやくのこと気付きます。

そしうしてまだ、リレーは終わった訳ではありません。

僕は、
僕たちは、
次の走者たちに、その大切な何かをきちんと手渡さないといけない。

まだ、
まだまだすることは残っています。


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