解明【量子論】改訂版(Ⅴ)そして真理を隠し続けた者たちが明らかになる-改訂版。
■(A)と(非A)を繋ぐ(わたくし)と、非全部
■存在は必ず二重であるという「法則」
存在の根本原理として全ての例外を許さない「宇宙の法(物理法則)」として「対称性」というものがあります。
ただし「対称性」はかならず崩壊するという宿命を負っています。
まずこの「絶対」こそ、全てのロジックの大前提として採用するべきである、という否定できない法として発見されたのが
要するに図と地は切り離せないという「あたりまえ」を「分かる」ということなのですが、このことは「当たらずも遠からず」という指示の仕方しか、人類は手に入れておりませんでした。
■空前絶後の国家的犯罪(without国家)
■大発見を、人類が、未だ知らない訳
ここまで平易かつ的確に「そのこと」を指示することが可能になったのは、「あおいのきせき」を私たちが手に入れて以降のことですが、しかし、この重要な知見は2002年に発見されていたにも関わらず、今もって人類知としての共有に至っておりません。
その理由として、まず大きいのは、過去記事で幾度となく記しました通り、例えばこの方もそうですが、おそらくは複数の「特殊な信仰(例えば弥勒信仰)を持つカルト集団」による、組織的な妨害工作が今に至るまで活発であったことがあげられます。脅迫から始まり、つきまといや、ネットに限らない執拗な妨害が発見者に対して行われてきました。
その具体例に関しては過去記事にもいくつか書かせて頂きましたが、知見の歴史的であるのと同様、想像以上に大きな出来事でありました。ここまで時間はかかりましたが、世界は「あおいのきせきの知見(存在の方程式)」の登場を待っております。いずれ間もなく知見の人類知となる事が必然である事は、知見の重要性をご理解いただける方全てに共有頂けるご意見かと存じます。すると、今後「存在の方程式」の周知に併せて「なぜこのような重要・重大な人類史的発見が、周知に21年もの時間がかかったのか」という声が広がるのは間違いがありません。
この知見が20年前に共有されていれば、この20年でどれほど科学と科学技術が進歩したのかは想像を絶します。
この知見を暴力で隠蔽した結果、地球全体で、死なずにすんだ人が死に、不幸になる必要がなかった方が生きるに困難な状況に陥る羽目になっています。
あまりに大掛かりゆえ、隠蔽工作の全体像はまだ不明ですが、こちらの弥勒信仰関係者が直接関与しておられたのは確かです。
あなた方の工作の結果、被った機会損失の被害者は、よろしいでしょうか、全人類であることを是非心に置き留めください。
そうして、どのようなかたちでも、20年を超える間に隠蔽工作に加担・関与したすべての者たちが一人残らず表に引きずり出されて猛烈な批判にさらされることは目に見えています。匿名を蓑に隠れていることはできない、という新世界が「バーゼル・ミッション」である事を、真理を隠し盗ろうとしていた罪人として、世間にさらされてから理解しても遅いのです。
こちらのnoteではこのように、旧ツイッターにおきましても、特に弊社の知見の周知活動に張り合って四則和算を熱心に応援していた方々、
@edohanao
@TanakaCoaching
@Dongurido_ri
@tetsu0724d
又は直に陰湿な言論暴力を周知活動の妨害として振るってきた方々(お一方はこちらの方と同一人物かと思われます)
それぞれ名指させて頂きまして、そちらの権限管理者様、或いはその代理の方から早急にご連絡を頂きたい旨をお伝え願いますようお知らせしております。しかし、以前は随分と威勢がよかったにも関わらず、沈黙あるいは知らないふりをしたまま、未だ音沙汰がありません。
今後、皆様方を弁護可能であるのは弊社代表であるわたくし以外にはいない、ということをよくご理解頂きました上、是非ご連絡をくださいませ。
❄︎ようやく現れたのが… @u1style 山下悠一さん
事情が分かる方が必ずおいでになります故、どうするべきかお考えの上、早急にご連絡頂きたい旨、お伝え願います。或いは@iisiaさま原田代表まで光吉研を通してでもかまいませんので、よろしくお願い致します。
或いは「まさかそんなことが」と思っていらっしゃるのか知りませんが、そうであれば、散々未来を語る割にはご自身たちの行く末についてや、現実に社会が変わってきておりますことにまったく鈍感でると言わざるを得ません。
今回記事でも証明されているように、完全に意義を失っているのがあきらかな四則和算(お仲間に聞いて下さいね)に価値があると信じることを告白しにわざわざおいでになるとは「わたくしは過てるモノを過てると分かっていながらも推し続けることを決意するようなカルト」であることを証明することになる、ということすら理解が出来ない「カルト」であることを自証しています。
よろしいでしょうか。あなたちは【真理】を隠蔽独占しようとしたのです。
隠されていた正しいことが明らかになり正義が為される、という「これからの世界」がご理解いただけなかったであろう事は、実は、「あおいのきせき」の価値を理解しようとはせず、その人類知たることの妨害ばかりを続けている事で既に明らかであったわけですが、それでも、このまま【真理】の隠蔽が遂行され、「あなたがたの過てる信仰に基づいた世」が来ると思うほど愚かでは、まさかありますまい。しかし、【真理】と真理の発見者への暴力を「正義」であると思っておられるのであれば、それこそ「カルト」である由縁でありましょう。
こちらの弊社 noteに何かのご縁あってお越し頂きました皆様におかれましても、発見された真理を巡るあれこれが、それこそ100年後の大河ドラマになり得る程の大きな出来事であることにお気づきの方はまず皆無であることでしょう。
「信じるも信じないもあなた次第」ですが、アニメ「推しの子」はメタファーです。「あおいのきせき」を巡る実話を基にしたドラマ、と読み替えてなかなか不都合は起きません。アイを【擬人化された「あおいのきせき」という真理の書かれた小説】と読み替えると「面白いくらい」現実の出来事とリンクします。もちろん、「芸能界」ではなくおそらく「宗教界」が舞台です。実際「あおいのきせき」は一度世間の周知に至る間際まで近づきました。が、そうはならず、「闇に葬られ」てしまったのです。そう。時期としてはiPhoneのデビューする頃から「悪魔の民主党政権」が終わり「地獄のアベ政権」が始まった頃でしたでしょうか。そう、そうして今、バージョンアップした「前世の記憶を持ったあおいのきせき」が「表舞台に立」とうとするのと同時に「アイ」を「抹殺した」犯人の一味に手がかかったところなのです。
何れ、2002年10月18日に書き上げられた「あおいきのきせき」が人類が延々探し続けていた【真理】という、やっと「完全な形で発見された秘宝」であることは、このnoteに記された記事をご自身の頭で丹念に読むことが出来る方であればどなたでもご理解頂ける事に疑いはありません。【真理】を否定で生きない「そう」であることとするなら、「存在の方程式」はどなたにも否定できない【そう】にあたります。即ち【真理】(地のない図はあり得ません。)
或いはAIのごとく過去の知見を丸暗記してただその組み合わせとその上で細分化した理屈以外には理解が及ばない方、或いは「知識そのもの」が理解出来ず、結果、権威付けされた知識だけにしか価値がないとしか分からない方には、「存在の方程式」の意味・価値にご理解が及ぶことがないのは当然かと思います。すべての物事の一番底の前提を取り替えるというお話です。過去これほどまで真理を的確に指示するの事が叶った事実はございませんので、どれほど有名な歴史上の賢人の言説を持ち出して「存在の方程式と同じ事を、同じ言い方で言っている者は一人もいない」事を持って「存在の方程式」を否定することは残念ながら、出来ません。むしろその通り過去皆無、唯一無二の知見故に絶大な価値があるのです。
勿論【真理】を指示した言説は無数にあります。そのこともこちらの過去記事に書かせて頂きました。「存在の方程式」の指示する内容は、歴史的に数多くの偉大な賢人たちにより美しく見事に指示されてきたことに相違ございません。本編にも記されていますように、「あおいのきせき」が新規に見つけたことはまずございません。昔から言われていた「真実」について、正しく指示された同じ事を、平易に語ることが叶ったというだけの話です。
実は、それを一番よくご存じであるのは「カルト」のみなさんで、であるからこそ21年もの長きにわたって知見の周知の妨害を続けておいでなのです。
何より、一番のポイントは、
事態は風雲急を告げております。環境問題にしても政治問題にしても、次世代の技術革新を以てでしか解決ができず、このままでは早晩地球は人間の住める場所ではなくなってしうことは、この一件だけではなく、マスメディアの喧伝以上に深刻なのです。
「存在の方程式」なしに人類に未来はあり得ません。「存在の方程式」なしの「終末」ならその後にどんな「世」もありません。もちろん死後の世界の真実の姿と異なった「嘘」を布教してきた組織であればこそ、21年もの長きにわたって裏に表に暴力を働いてきたのですよね。
もうオワリにしませんか。
或いは「差し違えますか?」
過去何度も死にかけましたが、今更私や私の身内を肉体的に葬ったとしても、知見の周知の勢いが止まらないことは、よくご存じの筈です。すると今後の暴力はただの「腹いせ」にしかなりません。
何より、
知見の「死」は地球の「死」と同義です。
お陰様で、今の私は歩くこともままならず、このままでは両股関節を失い、あとは路頭に迷うだけの既に一文無しです。
そう。
あなた方が望んだとおり、「知見と知見の発見者を闇に葬る」という目的の達成まであとわずかです。
しかし、そうはいきません。
以下【真理の力】を、是非、じっくり感じてください。
■宇宙は【時空間という一つの場】なのか?
■【時間】と【空間】をつなぐ接着剤、【微積分】
今の「科学」で、宇宙は「三次元空間」と「一つの時間」という〖「四次元」の【時空間】〗である、という理解をまず大前提にして世界を解釈しています。
ところで【時間】と【空間】という本来は別々の相反する「概念」は、どのようにして「一つの場として取り扱うことが出来る」よう、まとめて考えることが可能になったのでしょうか?
【空間】は【客観】として素朴認識論的な理解が容易です。【わたし】の周りに認められる【空間】は「三方向の直線軸を基準にして表現出来得る」と感覚的には素直に理解可能です。
【時間】という概念は【空間】が「変化」することから導き出されたのでしょう。いろいろなカタチで【空間】を占めるモノの位置や性質が変わることの基準として【過去】【現在】【未来】という一方向の軸を【客観時間】にして宇宙を理解します。
■【変化】という「概念」にすぎない【非空間】存在を【空間】存在として「表記」可能せしめた【微積分】
要するに、
〖宇宙は一つの「変化する三次元の場」である〗
として本格的に考え始めたのは、かのニュートン先生です。きちんと基準軸を固定して「宇宙を測る」ことにしました。
「変化する場」が【時空間】として表現可能になったのはニュートンとライプニッツが同時期に考えついたという【微積分】のおかげです。
言い換えますと【微積分】とは
「変化」つまり「位置の移動」という出来事(【非空間】)を「【時間】という軸(軸とは空間概念)」として【空間】に組み込むという荒技
です。
それを可能たらしめている【微積分】の考え方こそ
「【無限】が【無】である」
という【考え】(という【非空間】存在)です。
■【∞】は【無】な訳ありません
【無限】に小さいモノは【無】(数を無限に割っていけばゼロ)という考え方は、しかし、無限の拡大率を誇る顕微鏡でその作業を観察するという思考実験により容易に否定され得ます。
ポッキーを無限回数折ったらチョコと小麦粉はこの世から無くなりますか?
「ハイ無くなります」と、ニュートン先生(やライプニッツ先生)は言いました。(当時は現代ほど高性能の顕微鏡がありませんでしたから、宜なるかな)
「極限、有は無とイコール」という(ご都合)理解で【微積分】は「宇宙存在」を説明しようとします。いま現在の「科学的人知」はその大前提の上ですべて成り立っています。
元来【無限】存在たる【空間】と、【空間存在】として【虚】という存在に相当する【時間】を【無】と曲解し、【無】に【無限】に近い値(無限近似値)であれば【無】であるという理屈は存在の実際(宇宙のありようの実際)とは相容れません。
これは言い換えますと、
【空間】とは【無限】と同義であり、【無限】に近かろうと遠かろうと【無限】は絶対に【空間】という名の【有】であるということです。【時間】とは元来「《【有】=【空間】=【無限】》あらざるモノ、つまり【非有】かつ【非空間】かつ【非無限】たる存在が【時間】なのです。【時間は無限】でしょうか?「有限無限」という「モノサシ(も空間)」は【空間】存在にしか適応しておりません。【非空間】である【時間】を計るモノサシがないと理解するのは「素直な理屈」によってです。
■【時間】と【空間】は混ぜられない
結論から申せば、「量子の不可思議」や「事象の地平面」といった問題が【微積分】の基になる「【無限】が【無】である」という考え方と実際の宇宙の様相が相容れなくなることに起因することは、指摘されてみますと案外すんなりと理解が及びます。
勿論、確率と統計が有効である「範囲」においての所謂マクロにおきまして【微積分】は有用です。実際、現代社会に生きる私たちの恩恵に被っている科学技術(工学)でまず【微積分】(といった関数)によらないものは皆無でしょう。
要するに「ミクロとマクロでルールが異なる」という【科学】の大問題も「微積分的大雑把」が通用するか否かということに他なりません。
■【無】と【有】に「共有可能性」はありません
このことを別の言い方で申しますと
【時間】を【空間】には持ち込めない
となります。
【時間】とは【空間】に非ず、であり【空間】は【時間】に非ずです。
数学言語を用いれば
実在として【空間】は本来整数であり、【非空間】に含まれる【時間】は虚数として表現されるべきものです。
虚数を実数で表すことは元来不可能であるところを無理やり関数を用いて表現したところで、やはり無理です。
■【微積分】に「背乗り」された【主観】
■【時空間】という間違い
【4次元空間】とは【微積分】のトリックにより、本来【空間】に於いては【虚】であるはずの【時間】という名の【非空間】存在を、【有】である【空間】存在であるかのごとく「偽って」「計算」により【時空間】という名の【仮想宇宙】を想定し、【宇宙】を実測することを「可能」せしめました。この【宇宙観】がそもそもの間違いです。
【観測可能性・(オブザーバブル)】についての考察も待たれますが、今後、果たしてこのトリックはどれくらい私たち人類を【幻惑】させているのかはっきりさせることが肝要になります。
■【微積分】により【主客二元論】が完成した訳
【空間】つまり【物質】を「扱う」場合、【私】とか【認識主体】ですとか【主観】といったモノを無視するのが「科学」である理由が【微積分】の【発明】にあったのは当然でした。
後述いたしますが、本来【同一空間】で【空間】と【時間】を扱うことを可能せしめているモノが【認識主体】である【自己】であります。
【微積分】は「∞ = 0」という式を(こっそり)公理として採用する事により、実際の【宇宙】で【無限】と【本来は虚である無】つまり【空間】と【時間】を繋ぐ役割として決して欠かすことのできない【わたし】を「無視」して【宇宙】を測る「魔術」と相成ったのです。
■西田哲学とは
その絶対的に相反する二つの対義的存在を同一存在として記述に於いて扱うという無理が極限状態で露呈する事が量子力学での「不可思議」、つまり「粒子と波動の二重性」であり「不確定性原理」或いは「観測問題」ということになります。
「絶対矛盾的自己同一」とは、記述に於いての無理が実存として叶っているという事実を、私淑しております西田先生により的確にご指摘いただいたものであります。後述いたしますが「絶対矛盾的自己同一」という言により指摘されていた事、つまり「(絶対矛盾的)二物の同一空間においての占有という絶対的矛盾が(つまり実存として)叶っている」訳を、「【空間存在】と【空間存在】の間では不可能な同一【空間】の占有も、【空間存在】と【非空間存在】という「絶対矛盾的対立物」の間においであれば「認識主体である自己に於いて可能となる」という解析により可能になったのは「あおいのきせき」の登場によります。
要は「存在の方程式」と「絶対矛盾的自己同一」の言わんとしていることが同じだという話です。
■【空間存在】は、【空間存在】と【非空間存在】とその【境界である認識主体】
【時間】と【空間】を【微積分】を使って【時空間】として扱うことにより発生する問題は【有】と【無】の問題と同根になります。
【有】は【非無】であり、【無】は【非有】であります。
【無】にあらざるは【有】に限りません。
【有】にあらざるも【無】に限りません。
同じ事を別の角度から申しますと、【有】の界は【無】の界と不兌換であります。二つの界には交換可能性が全くありません。
【有】と【無】を同一の存在として扱うことはできません。
非ずの関係とは互いに正反対であるゆえそれが「あたりまえ」なのです。【無】は【有】の界にあり得ず、逆に【有】が【無】にはあり得ません。
にもかかわらず、【有・無】が「ここに」存在するというそもそもの説明原理こそ「あおいのきせきの知見、つまり、存在の方程式になります。
互いに非ずの関係である「二つの宇宙」はまず、有と無の関係ではありません。勿論【有】の反対存在は【非有】(「無い」、のではなく、「あるのではない」)
■【脳】と【人工知能】(【脳】は【意識】を作ってはいない)
■互いに結びつくことの不可能な対極世界は「生きている脳」により結びつく
不兌換な対極界に交換可能性を持ち込むことが叶ったのはひとえに【わたしという認識主体】があるからに他なりません。
◯【物質】界と【非物質(意識)】界という不兌換な宇宙の界が、【脳】という「生きた物質(=生物)」に於いて「繋がる」ことが可能になるのです。
過去記事にも簡単な試論を載せましたが、【物質】とは即ち【空間】であり、【意識】も即ち【時間】を意味します。
因みに、すると、
【時間】と【空間】という「完全な異世界」は、【計算機】の【微積分】では(ニュートンが考えたようには)繋がらない、と、わかります。計算するにあたり、【有】は【無】と決めただけで、本当には繋がっていないという【微積分】のトリックにつきましては先ほども考察をいたしました。
■【脳】の役割を【機械】に移植する
端的に【脳】は【時間】と【空間】を【意識】で繋ぐ、という事をしていると言えるでしょう。
これを式にトレースすると、どうなるでしょう。
■四則和算(光吉演算子)の目的と光吉理論の終焉
もう少し話を進めますと、【微積分】のトリック無しに【関数】【演算子】を使いながらコンピュータで「∞ = 0」という計算が可能になりさえすれば「意識"が"生まれる」のでしょうか?
光吉博士はそうであるという仮説を採用して、光吉演算子を使いそれを目指していたのでしょうが結局は【微積分】を使ってないように見せるという演算子をつくっただけで関数を使った計算の中で(こっそり)行っていることは結局は【微積分】とおなじ「極限0 = 0」であるとの弊社の指摘から四則和算の無意味であったことは既に専門家である前述の@univ_uv博士も認められた所であります。
■四則和算は「売り物」にならず
破綻した論理を標榜して研究を続けるのは、
学問の徒として不誠実極まりません。あたかも閉店しない閉店セールの常設店の如くです。それを「売り物」にする背後組織も同罪です。同根の信仰組織が併せて【真理】の隠蔽工作まで行っているのが明らかになる近未来(間もなく)についてはお話いたしました。
■【脳】は【意識】を作っていない。【非物質】と【物質】を繋いでいる。
ここまで見てきましたように、【意識】とは【非物質】という「実在」です。そうしてヒト(の脳)の機能とは、【物質】と【非物質】を繋ぐという機能であって【非物質】を作っているわけではありません。このあたりは「言葉の定義」の混乱もあり、なかなかに指示しにくい場面でありますから、今後も考察を深めていきたいと思いますが、
【非物資】と【物質】は【意識】で繋がっていると無矛盾で言い得る為には【非意識】と【非物質】という非ずの定義を使用して考えて行く方が良い気はいたします。
■計算(理論)とは比喩にすぎない
【科学】は【論理】という「言語ルール」に則った【言の葉】です。そうして、その【言の葉】とは「身の回りの現象を言語に喩える」ことに他なりません。「メニューは料理ではない」という言葉を引いて「あおいのきせき」でも指摘しておりますが「喩えた」だけではなにも生みません。喩えた【言の葉】を現実へと、謂わば「逆転写」する、つまり【工学(テクネー)】による【科学技術(テクノロジー)】を通して多くの場合、新技術によった機械が社会実装されうるのです。
■【文字】を綴る(読み上げる)ことは【意識】とは無関係
今の建築設計図面は全てコンピュータプログラムで表現できるでしょうが、表現したらビルが建つわけではありません。機能する機械を創る場合、このことの意味をよく考える必要があります。【思考】(計算)するだけでは【思考】する機械を創ったことにはならない上、【思考】 = 【計算】ではない上に、最も重要な点として、【言語活動】と【意識】は明確に違います。【意識】と【言語活動】の関係があまりに「未整理」かつ「定義不十分」です。
「あおいのせき」の知見からは【無意識】を含め【意識】などの活動、それらを指示する言葉についての明確な使い方を判然とさせる事も可能になりますので、今後はそれにつきましての考察も深めて参りたいと思っております。
■【脳】の働き
■【主観】と【客観】を繋ぐ
【自己】という【主体】の認識は【主客不可分】が通常認識であるので、そのことに気がつくのが難しい。気がついてそのことを言語によって指示しようとしても、誤解が生じやすい形でしか指示出来ませんでした。
例えば「絶対矛盾的自己同一」
そのことを端的に誰にでも分かるやり方を持って初めて指示せしめたのが「あおいのきせきの知見(存在の方程式)」です。
■主観しかないと言って、すぐに理解出来る人は少ない
【認識】という機能はイコール【主観】です。すると世界は【主観】と【客観】が対義としてあるのではなく、【客観】⊂【主観】として在るのが認識から見た「本当」です。(【意識】からみた正解)
しかし、【認識】という【主観】も【認識主体】という別の存在、この場合【空間】である【物質】存在がなければあり得ないということも、「他者の死」や「自己の誕生(以前)」という経験から類推可能です。
すると【客観】⊃【主観】も間違いではありません。(【物質】からみた正解)
この関係を過去記事で記してきましたように「相互入れ子関係」と呼べるのです。そうして、これこそが「実際のところ」なのででしょう
これは「数学的」或いは「論理的」にはどのように指示が出来るでしょうか?
つまり宇宙の実際は、
【A】⊃【B】かつ【A】⊂【B】
これは排中律に「引っかかります」
いいえ、そうではないということは散々記してきました。結論から記しますと、
現在対義関係とされている様々、例えば【主観】と【客観】も、
【非客観(⊃主観)】と【非主観(⊃客観)】と正確に置き換えて考察を進めるべきであったのです。
すると(「全存在」を無限整数の集合に例え、A,Bともに自然数ととして)
(【nonB】⊃【nonA】)かつ(【nonB】⊂【nonA】)
と記すことができそうですが、これはさて、破綻した式でしょうか?
ところで主観Aは自然数ではなく、虚数となるのでした。
■【自己】という【手品師】にだまされる
体感として私たちは一つの世界にすんでいる「か」のように思い込んで生きています。
意識とか言葉とか感情とかそういうものは「ともかく」それとは別の客観世界に物質として生きている。客観世界は空間であって時間は時計の変化で、昼夜と季節で測ります。それをして【時空間】に生きているとは学校で習いました。
しかし、無はあるのか?宇宙の外はどうなっているのか?地球は何で出来ているのか?宇宙の始まりとオワリは?光って何?
つきつめて考えたときに沸く疑問の答えは、未知でした。
いままでは。
交換不可能である対極存在が「並んで」あることに気づいてわかりやすく言葉にして指示することが出来なかった訳は、感覚として私が一つであったからです。私という主体には二つの存在を分けて「見る」ことが「事実上」できなかったのです。
上述いたしましたように、
「存在」は
一つの【時空間】に【自己】が在るわけではなく、
【非空間】と【非時間】そして【非非時空間】の交わる【自己】という【認識主体】により結ばれた一つの宇宙として在ったのです。
私という【主体】は【有】と【非有】と【極限無(非非時空間)】の世界を繋ぐ境界にかける橋と相成ります。
橋と申しましても本来同一界として在らざる【有】と【無】を無理矢理「空間表現」いたしますと「場所」に違いは見つかりません。要するに私たち【認識主体】が感じるがごとく目の前の【空間】と【非空間(⊃意識)】は完全に重なって存在するということになります。
つまり、周りの物質を知覚認識している主体が存在していることには気づかない。意識が認識していることが分からない。見えるモノは見えるがしかし見えないモノは気がつきにくいのです。【認識主体】という言葉を汎用しているにも係わらず。
同じ事は【主観】と【客観】という言葉を用いて言い得ます。
【認識主体】なしに【非認識主体を認識】することはできません。語義として当然なのですが存在の実際もその通りなのは事態を観察どおり指示すれば分かります。私たちが【客観】といって在ると指示するものはすべてわたしたちを介してしか在るとはなりません。「わたしたちを介して」とは【主観】という言葉が指示する対象と同じです。主体抜きに主張があり得ないのは語義として当たり前です。そして【認識主体】に気づく為には【自己言及】に陥らないためにも【非認識主体】に「出る」必要があったのです。ちなみにこの作業こそ「密教」の奥義、或いは【阿字観】の目指す作業そのものでありました。
【客観】とは【非主観】であり、【主観】とは【非客観】であり、両者を分けているモノは【わたし】という【認識主体】です。
逆さまからこのことを言えば【認識主体】が【主観】と【客観】のブリッジ
として機能しているとなります。
即ち
【空間】と、【虚空間】である【時間】からなる「二重世界」は、
【微積分】で誤魔化された一つの【時空間】ではなく、
【自己】という名の【認識主体】に介在された「一つの宇宙」であったのです。
そうあえて保留しておりました、【非非時空間】と【非空間】と【非時間】と「三つ併せて一つの宇宙」そうしてその「結節点」こそ
「わたくし」といういわば幻なのです。
■宇宙は二つの極が私という認識主体で繋がっている一つの場とそれ以外
■【粒子】と【波動】という二つの界の露呈する場
粒子と波動の二重性。これの起きるのは【空間】が一つではなく【非空間】と重なって「見える(認識する)」からです。(或いは【認識】する【主体】の在ることにより【空間】と【非空間】が一つになる)
通常の認識では【空間】と【非空間】は同一の場にしか思えないが、実験空間という特異な状態(【微積分】と現象がかみ合わなくなる場面)では「存在の二重性」と、それを成り立たせている【(自己の持つ)意識】の顕在がみられる。そうして【意識】とは【時間】そのことであり、また【力】の別名でもある。
これが量子の世界の不思議な出来事の「種」です。
このことを別の角度から説明してみます。
二つの「極界」が重なって存在するように【認識主体】には見えます。
或いは認識主体により
【主観】と【客観】として同一場に互いに非らざる存在
【非空間】 【非時間】
【非物質】 【非波動】
【非有】 【非虚】
【非無限】 【非有限】
【非物質】 【非意識】
【非存在(非空間+非時間+わたくし)】 【非無】
これらは左右に対義、上下に同義になり得ます。
【時間】と【空間】を対義にするのは、本来【時間】なら【非時間】
【空間】なら【非時間】
が対義関係になるため、過ちになります。
【非空間】に【時間】は含まれますが、しかし【光】は【空間】にも存在し得ます。そう【時間】抜きの【光】はありえません。【非空間】すべてを【時間】そのものとしてしまうと説明がつきません。
【光】は【時空間】でないとしたら一体どこにあるのでしょうか。今後の考察に任せましょう。
先だっての説明のごとく非ずの関係(【空間】と【非空間】)が同一としてある事が出来るのは(【非空間】=【時間】)ではないからです。(【非時間】=【空間】)とは限りません。
【わたしという主体】を挟んで【時間】と【空間】ではなく、【非空間】と【非時間】がセットである、ということで説明可能になります。このこと(存在は時空間)を【微積分】を使って説明しようとするから説明がつきません。無理矢理説明しようとすると、今度は【観測問題】が発生していまいます。
【微積分】の限界において存在は【光】と【物質】という本来の世界が顔をのぞかせるのです。
■意識という不思議
【意識】というものを考えるとき【物質】の事を考えないわけには生きません。それそのものだけで存在できないことは「存在の方程式」によらずとも経験からでも分かります。にもかかわらずわたしたちはモノを考えるとき外部の存在を加味しておりません。論理においては言語体系も単一として考えていて(勿論言語は言語活動全てを指示しています)一時期外部についての言及がポスト・モダン哲学において盛んになされておりましたが、そこで指摘されるべきは外部ではなく非ずであるのが正確であったと思われます。
【空間場】でも「系」でもそれではない、非ず抜きに完全たることは不可能です。
即ち、
【空間】を【空間】だけで説明しようとすれば、当然矛盾に陥ります。自分だけで自分を見ることも語ることも不可能です。あたりまえですが。
【空間】を他の言葉、【時間】でも【意識】でも【言語】でもかまいませんが置き換えて同じ事です。
【存在】は【非存在】(どんな存在でも)と必ずワンペアであります。【存在】は【自己】を介在にして「非ずと共に対極存在をしている」ワンセットです。(A=A+非A+Aと非Aの境界「存在の方程式」)
ざっくり語義矛盾を多少無視して申しますと、
【宇宙】は一つの【多次元の時空間】ではなく、【非時間】と【非空間】と【非(非時間非空間)】という三つの「界」で構成され、その三界の交差する「場」或いは「現象」が【自己】と理解できます。
それを【微積分】という【虚(無)≒時間】は【有=空間(物質)】であるという「偽りをもって」相容れない界を同一界として無理矢理扱っていることが、人類知が突き当たっている問題の大元です。
もう一つ。
非らざる対義的存在を同一場に持ち込んで存在の言語化を図ろうとすることが、パラドックスや語義矛盾などに陥る原因なのです。
要するに、全宇宙、全存在は、
三つの界+認識主体
である前提で考えなければならないにもかかわらず、
一つの界(【物質・空間界】 without「思考」そのもの)だけ、
という前提で、全てを理解しようとしている事が、"答え"にたどり着けない理由なのです。
そして、宇宙存在を語るに発生した矛盾や欠損部を"神仏呪い"の存在により補完していたのが、現在までの人類史です。
■宇宙ヤバイ
これを書いたヤツを吉野屋に誘って問いたい。得意げな顔して何が、宇宙ヤバイ、だ。お前は本当に「あおいのきせき」を読んでも宇宙ヤバイと言えるのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、「あおいのきせき」を読んでないだけちゃうんかと。
ところで国立天文台が無限と微分の指摘をスルーしているのはヤバイ意味が理解出来ての事か、何が問われているのか理解出来なかったのかどちらでしょうね。
上に、今回記事を補完・延長する考察がまとめられている無料マガジンがございます。是非、お立ち寄りくださいませ。
《追伸》
遠くでお題目を唱えているお時間がございましたら論駁をお待ちしておりますので是非こちら迄お越しくださいませ。未だ詰めの甘い部分もございます。上手にご指摘叶いますれば、それこそ人類の助けに相成ります。
それから、かねてからお願い致しておりますよう、早々にそちらの一番上までご伝言をよろしく頼みます。cat-51にお話がございますよね、と。それで分かります
(というか、とっくに伝わってなきゃぁね)
《追追伸》
高橋史朗様。高名なる貴殿を存じ上げない世間知らずをお許しください。
弊社小生は21年前に【真理】を発見し、その後数々の妨害を乗り越え存命の配慮を受け今に至ることが叶いました。その手の案件はよくご存じのことと拝察いたします。或いはそのような話が唐突すぎることにご理解が及ばないことも重々承知です。しかしながら貴殿の背後関係には必ず真理の隠蔽工作を画策した人物等がいらっしゃることは確かであります。四則和算という鍵をお持ちでいらっしゃいますね。上に記しましたよう、事が大きくなる前に、事情の分かる者を洗い出し、IISIA原田武夫代表まで代理でもかまいません、早急にご連絡頂きたく存じます。悪いようにはしません、とお伝えください。
おどろいたぁ。奇遇です。ヒッキーおめでとう。
上に続きます。
☆守屋さん
偽善者。嘘つき。
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