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生命のはずみ:ベルクソン「創造的進化」

カントの純粋理性批判を読もうと思い立ったのが2019年の6月で、それ以来、純粋理性批判の上中下、実践理性批判、判断力批判の上下、と3批判書を全部読み終えたのは今年(2022年)の5月だった。足掛け3年かかったが読んでよかったと思う。

読み終えたあと、ただ今、咀嚼消化中であるわけだが、さて次は誰の思想に当たろうか、と考えていた。デカンショと言えば次はショーペンハウアー、ドイツ観念論と言えばヘーゲル、あるいは、マルクスでもいいし、ヴィトゲンシュタインのほうが面白そう、または、C.S. パースを読み直してもいい、ハイデガー、あるいは、もっと最近のフーコーやドゥルーズのほうが面白そうだ。それとも、やはりギリシャ哲学に戻って、プラトンやアリストテレスあたりをじっくり読んだほうがよいかもしれない。

しかし、その後もなかなか決めることができなかった。数学・物理・生物学など科学についてもっと時間と労力を費やして再勉強したいという気持ちもあるし、カントを読み終えた達成感からか、虚脱感というか、少しぼんやりとしてしまったのも事実だ。

そんな中、7月に入ってから少しづつ、手元にあったベルクソンの「創造的進化」を読み始めている。以前に読んだことがあるが内容はほとんど頭に残っていない(*1)が、今ならもっと理解できそうだ。全430ページ、今70ページのところにいる。一日5ページの割で読み進めたとして72日、3か月コースだ。10月末読了を目標にしよう。本書は次の4章構成となっている。

第一章 生命の進化について 機械性と目的性
第二章 生命進化の発散方向 麻痺、知性、本能
第三章 生命の意義について 自然の秩序と知性の形式
第四章 思考の映画仕掛けと機械論の錯覚 諸体系の歴史を瞥見 生成の事象と偽進化論

ベルクソン「創造的進化」目次より

第一章では、機械論と目的論について論じ、行き過ぎた機械論、行き過ぎた目的論について、その問題点を論じ、進化を含む生命現象についてはどちらによっても捉えることができないことを明らかにする。

第二章では、人間以外の生命、動物や植物について論じ、自然への適応手段としての観点で、人間の持つ知性とともに、本能や意識について検討する。

以上をふまえて第三章では、知性の本質について、生命論と認識論について、当時の自然科学を引き合いに考察する。そして、創造と進化、秩序と無秩序などについて検討することにより、生命的存在の深い根源を「エラン・ヴィタル(生命のはずみ)」によってとらえ、そのうえで、人間について、精神・意識について論じている。

私が生命のはずみというのはつまり創造の要求のことである。生命のはずみは絶対的には創造しえない。物質に、すなわち自分のとは逆の運動にまともにぶつかるからである。しかし生命はそうした必然そのものとしての物質をわが物にして、そこにできるだけ多量の不確定と自由を導入しようとつとめる。

ベルクソン「創造的進化」 p.297-298

最後の第四章では、プラトン・アリストテレスから、デカルト、スピノザ、ライプニツ、そしてカント、最後にスペンサーの社会進化論まで辿ることで「諸体系の歴史を一応ながめるとともに、人間知性が事象一般を思弁しはじめて以来さらされているふたつの大きな錯覚を分析 (原著者序説 p.14) 」している。


原著の初版が1907年に出版されたものだというから、アインシュタインの特殊相対性理論・光量子仮説・ブラウン運動の発表の2年後のことである。ダーウインの「種の起源」が 1859年に出版され、進化論・自然選択説が種々の議論を引き起こしながら広く受け入れられるようになり、広く影響を与えていた。1865年のメンデルの法則の論文が再発見されたのが1900年、分子生物学の発達や遺伝子の構造・メカニズムの解明にいたるにはまだ半世紀を待たなければならない。また現代の確率論が芽生える直前でもある。

それより以前では、科学技術の目覚ましい発達によって、世界も人間をもすべて科学によって説明でき、現在のすべての物質の運動量と座標を知ることができれば、未来も過去も正確にわかるという考え方さえあった。近代科学の決定論である。しかし、少しずつ古典力学を代表とする自然科学の限界が見えはじめ、永遠も絶対もなく予定調和も究極目的もない非情な自然の世界があちこちで見え始めていた。

そのような科学の大きな節目の時代に、「知性によって、すなわち分析的な科学の見方と哲学による認識論によって、進化を含む生命のダイナミズムをとらえきれないのではないか」、という問題意識がどのように生まれ、どのように考えられたのだろうか。とても興味深いところではある。

また、予測不可能性に関して、あるいは偶然について、そして偶然の果たす役割について、どのように考えられていたのだろうか。そのへんも注意して読み進めてみたいと思う。

第四章のカント批判のパートも楽しめそうだ。

それぞれの章を読み終えたところを目安に、だいたい一月に1回 - 2 回くらいのわりで、それまでに私なりに理解したところ、面白いと思ったところなどを記事にしていこうと考えている。



考えてみれば、私たち生命体は不思議なものだ。

まず、周囲の環境と個体を区別して考えることはできないし、生命活動の中で常に変化・変容している。周囲から切り離された閉じた私というのはいない。

生きているものはすべて周囲の環境とエネルギーと物質を交換しながら常に変化しているし、そして、そのことによって統一された個体として維持されているのだ。人間のことを考えてみても、各器官、各細胞、それぞれが独立にそのような生命活動を行いながらも一人の人間として統一された自分として生きている。そして、細胞レベルで見ると、古いものは死んで廃棄され新しいものに常に入れ替わっていく。分子や原子のレベルで考えると、今、呼吸して吐きだした空気の中の二酸化炭素のうちいくらかは、それまであなたの身体の一部だったし、吸い込んだ空気の中の酸素のうちいくらかは血液に取り込まれ、あなたの身体の一部となることも、容易に理解できるだろう。今のあなたは過去のあなたとは物質の1セットとしては違うものなのだ。

そして、私の身体は、受精卵から分裂して作られたものであり、それらは物質あるいは情報のつながりを持ったまま、先祖を辿っていくことができる。どこからどこまでがあなただと言えるだろうか。

私が私であるために構成される要素を私と呼ぶとしても、私は私であり続けるために常に私である何かを捨てさり、私でない何かを取り込む。私とは「ほぼ私」であることに気づくだろう。その刻々変化していく「ほぼ私」を統一した人格とした私と考え、「ほぼあなた」をあなたという統一された人間と考え、同様に、生物であれ無生物であれ、様々なものに名前をつけて、各々の特性を捉え、時間と空間と因果関係の枠の中で認識し、それが確固として変わらないものと信じている。

しかし、生きているということは、常に新しいことにぶつかることで、偶然と意外性の連続なのだ。


私たちはどこから来てどこへ行くのだろうか。



■ 注記

(*1) 「訳者はしがき」によれば、「創造的進化」は1907年に出版されたという。私の手元にある本は、底本として12版(1913年)を用いた1953年出版の訳本をさらに、「旧仮名を新仮名にあらため、同時に改訂も試みた」1978年の岩波新書の1996年版で、1998年に古本屋で430円で購入したもののようだ。2回ほど読んだはずだ。年季のはいったドッグイヤーもいくらかあるし、傍線もいくらか引いてある。とはいえ理解が不十分だったのだろう、内容をほとんど覚えていない。

当時は、読み終えたらこのようにサインしておくのを習慣にしていた。
今見ると、ダサイしアホに見える。
まったく覚えていないのだが、古本で買ったことがわかる。私の筆跡ではない数字だし、当時、私がたまに本を購入していた古本屋ではこのように最終頁の右肩に売値を記入していたはずだ。
430円で購入したらしい。



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