自由について 2:イマニュエル・カント「実践理性批判」
去年から今年のこの困難な時代に世界で起こっていることを見聞きするにつけ、道徳とはなんぞや、自由ってなんだろう、この世界はどうあるべきなのか、と考えさせられることも多い。
苦節6か月、ついに「実践理性批判」を読み終えた。おととしから去年のまるまる1年かけて読んだ「純粋理性批判」の上中下の3巻と比較すると、分量はかなり短いけれども何倍も難しい。苦労して読んでよかった。達成感はいっぱいだ。
以下のように理解した。念仏みたいと思うかもしれないけれど、とりあえず、書いておく。
自然界の自然法則を明らかにするのは思弁的理性であり、これは「世界がどのようにあるか」を明らかにする。しかし、純粋理性批判によって論証されたように、思弁的理性によっては「世界がどのようにあるべきか」は決してわからない。
一方、「世界がどのようにあるべきか」は仮想界の道徳の法則によって、実践理性についての批判を通じて明らかになる。換言すると、私たちが了解する世界の合目的性を鑑みるに、そのような法則の実在が要請されるのだ。そして、あるべき世界は、私たちの自由な意志決定による実践を通じてはじめて実現されるべきものなのだ。
すなわち、1人1人の経験によらない、持って生まれた意志の自由があるとするならば、そこには拠ってたつところの最高善としての道徳の法則があるはずである。そして、我々の能力を最大限に発揮して最高善の実現に努めることは我々の義務であり、それは、幸福を求めることや欲の実現、あるいは、苦痛や罰を遁れるため、といった他からの要請による義務ではなく、義務のための義務になるはずである。
そして、有限な時間にしか生きられず世界そのものを知りえない、そんな理性的存在者である私たちにとって、そのような最高善が客観的に可能であるためには、3個の理念を前提とすることが、不可避なのだ。その3個の理念は思弁的理性によっては決して証明できないが、否定もされない。そして、実践理性の批判によって実在することが要請される。それら理念とは、「心の不死」「自由」そして「神の現存」である。
純粋理性批判によって分離され理性によってはわからないとされた「世界はどのようにあるべきか」「その中で私達はどう行動するべきなのか」すなわち「義務」と「自由」、それがここで明らかにされている。「神や不死、そして自由は、信じられるべきものであり、だから私は信じる」というそういう書のように理解された。
以上のように理解したが、やはり、すでに無常の風が吹いている私達にはかなりの違和感があると思う。自然と自然の成り行きには意味がなく、しかし私達の人生は特別なものであって意味があると考えるのか。それとも、私達の人生は自然や宇宙の一部であり、両方とも意志もあり意味もあると考えるのか。あるいは私達も自然と宇宙の一部なのであって「私」や「理性」は幻にすぎず意志も意味はないと見なすのか。それは信仰の問題だ。
さて、実は、この note を書き始めてからもうすでに2か月たっている。書きっぱなしの段落が続いて8000文字くらいあったが、書いては消し書いては消し、うまく書くことができず結局、あきらめた。
意義や歴史の中の位置づけ、そして、その後の哲学や科学への影響について私の理解したところを自分の言葉で書こうと試みたが、なかなか上手くいかなかった。基本的に哲学そのものや哲学史、そして科学史についての知識が不足していること、「概念化すること」と「実践すること」について筋道立てて考えるだけの思考力が足りない、と痛感させられた。
知識について言えば、これまで読んだ本を読み返したり、関連するWebサイトをつまみ食いしてみたが、結局のところ、自分の言葉にならない。語るに十分な知識を獲得するには時間はかかるし、それを自分の中で咀嚼して関係づけていく作業にさらに時間がかかる。
また、思考力という点では、自分が持った概念を、自分の経験や見聞きしたことと関連づけて、経験と概念の間を行き来して考える力がまだまだ不足していると思い知らされた。実践理性批判を読んで得た新たな概念や考え方を今の私達が経験し直面している現実に結びつけて考え、その結果を再度概念として落とし込む。このようにして概念を深めない限り、どんなに書いても書いても、上の段落に「私なりの理解」として書いたことと同じことを、言葉をかえて繰り返し述べているにすぎず、まったく面白くない。
自分が言いたいことを人の言葉を借りて書くのは、イマイチであるが、今の私には、木田元の「反哲学入門」から引用しておくのがちょうどいい。
たしかにわれわれはそこ(認識の場面)では認識主観としてその活動の場面を現象界に限られ、因果関係の網目に組み込まれていますが、道徳的な実践の主体としてはけっして現象界の因果関係に縛られているものではありません。もしこの関係にしばられているとすると、そこではすべてのものに必ずなんらかの原因があるので、道徳的責任を問うことができるような実践、つまり自由な意志にもとづく実践などありえないことになりましょう。ですから、道徳的実践の主体としてのわたしは、けっして現象界の一員ではなく物自体としての人格でなければなりません。そこでは、物自体(人格)としてのわたしが物自体(人格)としての他者に、その自由意志に基づいて関わり合っているのです。カントの第二の主著「実践理性批判」はそうした実践哲学を展開したものです。神の問題にしても、カントは「純粋理性批判」では神の存在を否定しているように見えますが、実はそうではなく、彼は神を理論的認識の対象として扱うことのおかしさを指摘しただけなのであり、彼に言わせれば、「信仰に席をあけるために、知を否定しなければならなかった」のです。つまり、信仰を純粋に信仰として生かすために、知識の及ぶ領域を限定しようとしたということなのでしょう。p.185-186
やはり、原書にあたるというのはよい経験だ。入門書や解説本をさらっと読んだだけで分かったつもりになっているのはよくない。そして、よい入門書は原書をあたって帰ってくると、新しい発見が見つかる。
それにしても、何かが分かると、さらに分からないことが分かってくる。知れば知るほどわからなくなってくることも多い。自由な意志などあるのだろうか。人生はあまりに短い。
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