美しいと認識する力・5:イマニュエル・カント「判断力批判」
「理屈ではわかりません。」
まぁ一言で言えばそういうことなのかもしれない。ならば理屈でわかる限界を限定することがとても大事なのだと思う。私が何のために生きているのか、世界がどうあるべきなのか、すべてを理屈・論理で導くことはできない。かといって、私がどのように生きているのか、世界がどのようにあるのか、それは理屈と論理で説明することができるのだから。
つまりは、神学・宗教を、生活の法則である道徳や自然の法則である科学よりも前にある本質的なものとすると、道徳も科学もそれらが拠って立つところを失う。そして、神学・宗教を独善的なものとし、過去の模倣と解釈の中に生活を閉じ込めてしまう。
理屈・悟性と道徳・理性が到達できる限界をわきまえ、正しく使用して考え抜くことが大事だと、カントは繰り返し述べる。正しく使用する、というのは、わからないことはわからないとしつつ、わかることは徹底的にわかろうとする、そういう態度だ。
イスラム文化、西欧文化、そして日本・韓国・中国のそれぞれの文化を考えるにつけ、この切り口は面白い展開を開けるように思う。・・・たぶん、専門の人はもっと精緻な議論で深く掘り下げているところであろうから、もっともっと解りたいところだ。
わかっていること・わかるべきこと・わかって然るべきこと、そういったことのかなりの部分が細分化し複雑で難解なものとなってきた。それにもかかわらず、それらは多くの人にとって、目に見えない当たり前のことになってしまい、それらは神学と同等のわかりえないことになってしまっている、そこに現代の大きな問題があるのではないかと思う。
本来、だれか他の人がわかることは自分にもわかるはずだ。同じ人間が考えたことなのだし、マジックも秘術もない。しかし、最新の情報通信技術やバイオ・生命科学、超弦理論どころか量子力学、相対論、電磁気学や古典力学、それらを支える数学理論など、16世紀にもさかのぼる知は獲得することも難しく、それが私たちの日々の生活の隅々を支える基礎になっているにも関わらず、わからないままに過ごさざるを得ないというのが普通だろう。そして、日々の生活が圧倒的に便利になり、その力を享受していることは誰しも実感していることであろう。
そんなわけで、この現代において、エセ科学・オカルトあるいは科学万能主義、そういった科学的とも道徳的とも言えない種々の論調がますます幅をきかせることになってきたのだと思う。
世界がどのようにあるのか自然科学について考え(純粋理性批判)、世界がどうあるべきか道徳について考え(実践理性批判)、世界の美しさ・芸術について考え(判断力批判)、信じるべきことについて考える。
つまりは生きることについて考えること、そういう当たり前のことが、予測が困難で不確実な未来を前に不安で足がすくみ、溢れる情報に溺れそうになりながら地に足がつかない、そんな現在を、よりよく生きるうえでは大事なことなのだと改めて思う。
カントの三批判書を読んできて、予定どおり、もう少しで大団円だが、そんなことを思いながら読んでいる。