小川さやか「チョンキンマンションのボスは知っている」
「レシプロシティ」の弊害を乗り越える「ついで」の精神。「市場主義」と「再分配」の組み合わせの弊害を乗り越えるための考え方は、どちらか一方への比重の最適化だけでなく、「市場主義」と「分配」の組み合わせだ。
年始に、前から気になっていた小川さやか著「チョンキンマンションのボスは知っている」を読了。これはめちゃめちゃ面白い。
その直前に再読した、「ロジカル・シンキング」照屋 華子 (著), 岡田 恵子 (著) を地でいったような章立てと各章それぞれの構成が解説型のストーリーと並列型の論理だてになっていて、引き込まれるエピソードを軸にスッキリまとまっている。やっぱりちゃんとした学者が書く文章は論旨がはっきりしていて、わかりやすく面白い。こういうふうに書ければよいなぁと思う。
また、著者のエネルギッシュな研究取り組み(*1)は、ただただすごいと感心し、感銘を受ける。私もそうありたいものだ。
内容はもちろん興味深い。「チョンキン・マンションのボス」を自称しているタンザニア人・カラマの中古車輸出ビジネスを中心に、その周辺を含め現場の只中に飛び込んだフィールドワークが、ノンフィクション・エッセイ風の軽いタッチでまとめられている。というよりもカラマの物語と言ってもいいかもしれない。
生き馬の目を抜くアングラの世界でビジネスを回すうえで、タンザニア人たちが作っている、誰にでも開かれた商売の仕組みとセイフティネットと、背後にある考え方や価値観がとても興味深く、面白かった。
背景も来歴も貸し借りも関係なく誰でもチャンスがあり、沈んだとき・浮いたときに応じて「ついでに」の精神で助け合う。つまり、助けられたものは負い目を背負わず、助けたものは恩に着せない。
「ついでに」の精神は、やはり特に面白かった。
香港に生きるアフリカ商人は、一攫千金と無一文と隣り合わせの流動性の高い人生を生きている。だから、たまたまうまく商売がいってお金があれば何かのついでにお金に困っている同胞を助ける。あるいは、たまたまうまく行ってないときは、いろいろ都合してもらう。
そこでは「無理をしないこと」も大事だ。自分が出来るときは出来ることを出来るだけ。貸しも借りもつくらないわけだ。
なぜなら、いくら貸しを作ったとしても返してもらえるかどうかは究極わからないからだ。浮き沈みの激しい相手が、将来どうなってしまうかはわからない。今、生活に困っている人が1年後に大儲けで香港で左うちわかもしれないし、あるいは、さらに困って故郷に帰るかもしれない。逆に今の金持ちは明日の無一文かもしれない。
だから、そのときに出来る人が無理せず、何かの「ついでに」助けるくらいがちょうどいい。したくなければしなくても構わない。
騙し騙されながら助け合う。または、振舞いながらゴチになりながら助け合う。そこでお互いに負い目や驕りがないようにしようと思うと、親分子分の関係ではなく「対等の関係であること」を築くことも大事だ、と気づくことだろう。
また、「人それぞれの事情には関わらない」も大事だ。
犯罪すれすれ、あるいは犯罪にもなりうるような危ない橋を渡ったりし、してきたわけだから、過去も含めて穿り返せば誰にでも何か都合の悪いこともある。いちいち「あなたは昔、こんなことをしたよね、助けてくれと言われても私にはできない。自業自得。」とか、「そもそも、やってることがおかしいんじゃない?スジが違うよ。」とか「目的はなに?なんで私がやらないといけないの?」などと問うようでは何も始まらない。
つまり、誰も信用できないことが前提の社会ではあるが、過去はともあれ、未来がどうでも、まず、相手を信用しないとビジネスは始まらない。だから自分とは関係ないことについて、他人を詮索したりすることもなければ、老婆心ももたない。老婆心を持って何か言っても相手のその後に対して責任をとりようがないではないか。自然と、他人の諸事情には無関心となる。
ところで、「再分配」を前提する社会では、「よりよい社会のために」といった理念と価値基準は必要だ。
ものすごく単純な例として、私達のように、皆から税金のように強制的に集めたお金を、困っている人に分け与えるような福祉制度を考えてみる。そうなると、誰にどれだけ、どのように配分するのか、問題になるだろう。よりよい社会に貢献しない人には配分したくない、と揉めるであろう。では「よりよい社会」とはどういう社会だろうか。そしてその貢献度はどう測るのだろうか。そこには皆が合意する価値基準が必要で、レーティングが必要となる。
だから、俺が汗水働いて得たお金を使って、あんなことに、あんな役にも立たない人に与えている、と言って争いが絶えないことになる。個人の思想信条・価値観の自由がある社会ならば、どこか合わないことがあるはずだからだ。
本書に描かれる香港のタンザニア人を中心とした社会は、持っている人が無理なくできるだけ分け与えればいい、したくない人はしなくてもよい、という世界だ。これは、狩りに出てたまたま大きな獲物をとった人が、みなに分け与える「分配」の世界だ。そこには共通の理念も価値基準も必要ない。
そして、今の社会での狩りの場は、もちろん「市場経済」だ。
別に再分配をやめにしてすべて分配にすればいいのだ、と言いたいわけではない。
私達は、社会貢献だなんて肩ひじ張らずに「ついでに」出来るときに何かをしているというくらいに構えて、「分配」の精神を思い出して「お互い様」だと割り切って、そして、他人の事情には首つっこまずに鷹揚にすごす、自分の事情も気にしない、それだけで、もっと人にやさしい社会になるのではないかと思うのだ。
そういえば、ずいぶん前の話題だけど、杉良太郎のこのエピソードを思い出した。
「もちろん売名だよ」杉良太郎の痛快すぎる福祉論 (buzzfeed.com)
他にも彼らがビジネスを回すプラットフォームも面白かった。アフリカの母国と香港・中国とをつなぐ緩い基盤のSNS、ICTを基盤にしたネット送金システムや物流システムだ。専門的な知識とIT人材を駆使して大がかりな仕組みを構築したわけではない。そこにある複数のシステムをうまく活用して必要に応じて自然に出来上がったものだ。
そして、人生を楽しみ人生を旅する彼らのカオスな姿がそのまま乗っかり、ビジネスの仕組みが潤滑油のように回っている姿が面白い。
さて、去年末にマイケル・サンデルの "Tyranny of Merit" を読んだが、そこで能力主義社会の弊害が問われ、解決すべき問題として提示されていた。
すなわち、機会の均等をうたい能力や効力のみを軸にレーティングしその結果としてかえって「役に立つもの」「役に立たないもの」を二分化し、そしてそれが固定してしまう社会となり、「役に立たないもの」「負け組」が排除されていく。「負け組」は自らのおかれた状況は、自分の努力が足りず能力が不足しているせいだとされ、自己責任だということになる。「勝ち組」はすべては自分の能力と努力によるものであると考え、自分の報酬は自分の能力と努力に値するものであり当然のものである、と傲慢な気持ちになる。
「私だってこんなに頑張っているのに」と憤る「負け組」はその不満を、例えば福祉政策によって優遇されている層に対しても「ずるい」と感じ、あるいは貿易の不均衡も「彼らはずるしているからだ」と考え、本来自分が持てるもの、つまり機会が平等であれば自分が持てたはずのものを、彼らが盗んでいる、と考えるようになる。
そのようにして社会の分断が進み、さらにそのような情動を利用する政治・経済のキャンペーンによってエスカレートしていく。
そんな社会の問題点を和らげるヒントがどこかにないのだろうか、と思う人は読むべき本だと思った。
もちろん、「すべてこれで解決」というような特効薬ではない。表の社会があるから裏の社会も成立する。しかし、レシプロシティの網に囚われていたり、あるいは、その網から外れてしまったりして、ちょっとツライ人にとっては、「「ついでに」できることをしよう、それでいいんじゃない」となんとなくほっとして元気が出る方もいることだろう。
さて、最後にもう一つ。本書に描かれている香港のタンザニア人たちは、人生を、目的も行先もわからない旅のように考えている、と感じられるということだ。共感する。
私達は、どこから来てどこに行くのだろうか。
■注記
(*1) この方の大学院のときの研究で、タンザニアの露天商に自ら弟子入りし、参与観察を行うというのがある、なんというバイタリティだろうか。
未読だが、本も出版されている。
■ 関連 note 記事